ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『パトリシア・ハイスミスに恋して』(2022)エヴァ・ヴィティヤ:脚本・監督

   

 「パトリシア・ハイスミスとは、いったいどんな人物だったのか?」という問いかけの、その答えの一端でも見出せればという気もちでこの映画を観た。
 わたしは(そのほとんどを忘れてしまっているとはいえ)パトリシア・ハイスミスの作品はいちおう、邦訳されているものすべて(おそらくはすべての作品が邦訳されているのではないのか)読んでいて、彼女の作品の魅力のとりこになっている人間ではある。だから上記の問いと同時に「パトリシア・ハイスミスの作品の魅力とは?」ということも改めて探ってみたいとも思っていた。

 このパトリシア・ハイスミスを捉えたドキュメンタリーでは、彼女の作品についてはあまり触れられることはない。しかしこの映画で触れられた『見知らぬ乗客』、『キャロル』、そしてトム・リプリーのシリーズから、彼女のことも語られてはいたし、彼女がその日記かノートブックに書きのこしていたという「私が小説を書くのは生きられない人生の代わり、許されない人生の代わり」という言葉に、彼女と彼女の作品との関係について読み解く鍵はあるだろう。
 しかしながら、この映画の中でハイスミスは、「あらゆる出来事は自分の作品に影響を及ぼしている」とも語っていて、『リプリーをまねた少年』にははっきりと、彼女の親しかった女性の影響があらわれているという。
 また、今では彼女のいちばん有名な作品になった感のある『キャロル』が、彼女がデパートで働いていたときに見かけただけの女性のことから作品化したということは、この映画で語られるまでもなく皆がよく知っていることだろう。

 この映画は、監督のエヴァ・ヴィティヤがハイスミスが書き残した日記・ノートブックを読むことで生まれたものらしいが、生前の彼女はその日記が人に読まれてしまうことを怖れていたらしい。
 ハイスミスには『イーディスの日記』という、日記を書きつづけた女性のことを書いた作品があるのだけれども、実はその作品の主人公は、自分の日記には彼女の現実の生活の悲惨さは書かず、ごまかして「ハッピーな生活」という「嘘」を書きつづけていたのだった。
 わたしは、この『イーディスの日記』のようにハイスミスが自分の日記に「嘘」を書いていたとは思っていないけれども、「生活」と「日記」との関係では彼女の実生活の影響は大きかっただろう。
 ちなみにこの『イーディスの日記』は、彼女のそれまでの作品をジャンル分けできる「サスペンス」「ミステリー」などの範疇に入らないため、当初出版社から拒否されたのだという。このことは、この映画で語られる「私はミステリーを書いているつもりはない」という言葉に呼応するものだろう。

 パトリシア・ハイスミスの生涯などについては、英語版のWikipediaにかなり詳しく書かれていて、そういうことを知りたいのならば、この映画を観るよりもそっちを読んだ方が有益かもしれない。
 しかしやはり、この映画には生前ハイスミスと関係のあった3人の女性が出演してナマの声を聞かせてくれるわけで、ハイスミスの時代のLGBTの人たちの「文化」を知ることができるということで貴重ではある。中でも、ウルリケ・オッティンガーの映画に出演したタベア・ブルーメンシャインの発言は貴重なものだ(女性が男装する、「ドラアグ・キング」という言葉を初めて知った。

 そのWikipediaの記述に、出版者のOtto Penzlerという人がハイスミスについて、「[Highsmith] was a mean, cruel, hard, unlovable, unloving human being ... I could never penetrate how any human being could be that relentlessly ugly. ... But her books? Brilliant.」などとスゴいことを語っているが、わたしも先にいろんなところで読んでいたハイスミスのことで、「ものすごく気難しい人だった」という印象を持っていたのだが、この映画の中の過去映像でインタビューに答えるハイスミスは、時に笑みを浮かべながらの好人物ではないか、という印象だった(インタビュアーの変な質問のせいで気難しい表情をする姿もあったが)。

 この映画でも語られていたように、晩年の彼女はその政治的建前に反して「差別主義者」的になり、人嫌いにもなってどんどん人に会わなくなっていったようだ。せっかくのフランスの住まいを税金問題で出ざるを得なくなり、そのあとに「終の住み処」となる「トーチカのような」住まいをスイスに建てるわけで、この映画で初めて、そのスイスの住居の写真を見たが、おそらくそれは彼女の「人間嫌い」の精神のあらわれとしての住居だったのだろう。

 映画では彼女の死の前にさいごの小説を書き上げていて、それは『キャロル』につづいて2作目の「レズビアン小説」だったと語られていたが、その作品は日本でも翻訳された『スモールgの夜』のことだろうと思う。
 この作品、わたしも過去にいちど読んではいるが、「なんだかとっちらかった作品だなあ」という印象ではあったし、「レズビアン小説」だという意識では読まなかった。この映画を観たあと、もういちど読んでみようとは思う。

 さいしょに彼女の作品を賞賛していたグレアム・グリーンは、彼女のことを正当にも「ミステリー作家」と定義づけせず、「不安の詩人」と呼んだという。この短い言葉が、わたしにはハイスミス評としていちばん納得が行くようだ(グレアム・グリーンは、ナボコフの『ロリータ』を誰よりも早く賞賛した人物だった。わたしの好きなナボコフハイスミスという2人の作家を早くに賞賛していたグレアム・グリーン、素晴らしい人だな!)。

 さいごにひとこと、この映画には全編にわたって、ビル・フリゼールとメアリー・ハルヴォーソンの印象的なギター・プレイを聴くことができ、背景に映る風景の映像とのマッチングが素晴らしい。