ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『黒い天使の目の前で』パトリシア・ハイスミス:著 米山菖子:訳

 収録作は以下の11篇。

●「猫が引きずりこんだもの」
●「仲間外れ」
●「かご編みの恐怖」
●「黒い天使の目の前で」
●「わたしはおまえの人生を軽蔑する」
●「エンマC号の夢」
●「うちにいる老人たち」
●「ローマにいる時は」
●「どうにでもなれ!」
●「凧」
●「黒い家」

 ぜんぶ読み終えてからそれぞれの作品の感想を書くと一気に膨大な量になるので、それぞれを読んだ感想は読んだ日に「日記」に書いた(これからも「短篇集」はこういうやり方にしたい)。それで、ここでは「まとめ」として、この短編集全体の感想でも書いてみようか。

 一般に、パトリシア・ハイスミスは「サスペンス・ミステリー作家」と認知されているようだけれども、この作品集で、あきらかに「犯罪絡み」という作品は4作ほど(うち1作は殺人も起きていないが)。また、いわゆる「犯罪」ではないが人が死ぬという作品は3作ぐらいだろうか。あとの4作は言ってみれば「日常の中での人の(ネガティヴな)心」を描いたといえばいいのだろうか。どうだろうか。
 その中でも、『かご編みの恐怖』は「ネガティヴ」というのでもなく、ただ人が人として「祖先」からDNAとしてでも受け継いだ「技」に気づいて「畏れ」をおぼえるヒロインの話で、わたしのいちばん気に入っている作品なのだけれども、前にも書いたけれども、ここにハイスミスの作家としての真骨頂が読み取れると思う。これは、「人」が自分も「人」であることに気づくという「薄気味悪さ」なのだ。

 わたしは勝手に、パトリシア・ハイスミスという人は、彼女の世代的にも「実存主義」の影響を強く受けている作家なのではないかと思っていて、だからこそ単に「サスペンス・ミステリー作家」ということを越えて愛好しているわけなのだけれども、そこでさて「実存主義」とは何か?などと問われると答えられないので、馬脚をあらわす前にこういう話はまた後日にしておきましょう。

 あとはこの作品集に通底するものとして、「エスタブリッシュメント」への親近性(今、適切な言葉が思い浮かばない)ということが言えるのかと思う。「知識人層」、「富裕層」を取り上げることが、そういう人へのシンパシーがあるかどうかは別にしても、意味があると思う。それはたとえば『太陽がいっぱい』でトム・リプリーがあこがれる階層でもあり、『プードルの身代金』の警官クラレンスのオブセッションでもあっただろうか。そして、彼女の長編の多くの作品での登場人物はそういう階層の人たちである。
 この作品集でも、マッチョな船乗りばかりが登場する『エンマC号の夢』でも、大学生でアルバイトで船に搭乗していた(予備「知識人層」であろう)やさ男のサムの視点で物語は語られる。

 もうひとつ、この短篇集の構成について書けば、いちばん最初の『猫が引きずりこんだもの』は、内容的に最後の『黒い家』につながっていると思う。
 このふたつの作品は「地域コミュニティ」の「タブー~秘密」についての作品で、『猫が引きずりこんだもの』ではある殺人事件があり、その地域のコミュニティの人たちは真相を知らされるのだが、被害者はろくでなしだし、加害者は地域で認められた人格者であるから、皆はこの「事件」を「なかったこと」として、以後いつまでも隠すのだ。
 ところが、『黒い家』では、そんな「地域コミュニティ」の「秘密」を知らない若い男が、その領域に無神経にずかずかと踏み入り、コミュニティの人物の逆鱗に触れてしまうわけだ。
 「円環」を描く、いい構成の短篇集だと思った(けれども、この翻訳は「直訳体」というか、読みにくかった)。