ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『愛しすぎた男』パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳

 原題は「This Sweet Sickness」で、「この甘美なる<ビョーキ>」とでもいったところだろうか。何だか検索すると、邦画で『Sweet Sickness』というタイトルの作品があるようだ。知らんけど。

 全篇が主人公のデイヴィッド・ケルシーの視点から語られ、彼がいかにアナベルという女性に執着していたか、そしていかに自分の周囲の(彼のことを心配する)人々に冷淡だったかが読み取れるようになっている。言ってみれば、主人公のデイヴィッドという男が破綻・崩壊していくさまを、ハイスミスらしくも冷淡に突き放して書いた作品といえるだろうか。ある面で『妻を殺したかった男』のように、「この主人公はなんてバカなんだろう!」ということを、作者の主観を一切まじえずに提示した作品だろうと思う。
 その主人公の「バカ」ぶりを助長させるかのように、相手のアナベルが「まだ連絡してもいいのよ」みたいな優しさをみせるからヤバいのだけれども、ここはきっぱりと、「もう二度とわたしに連絡取らないで! わたしの周辺をうろつかないで!」ってやってしまえばよかったのに、などとは思ってしまうし、その上でこのストーカー男はどんな対応を取っただろうか、などという興味はある。

 一般にこの作品は今では(日本では?)「時代に先んじて<ストーカー>というものを描いた作品」と評価されているようで、たしかに何でも自分の都合のいいように解釈して猪突猛進していく姿からはまさに「ストーカーの心理とはこういうモノなのか」という感想を持つ。「誰もオレがアナベルを愛することを遮断する権利は持たない!」という狭窄した意識は「病的」だが、こういう「誰もオレの思いを遮断することはできない」という思考回路を持つ人物というのは、それが<愛情問題>ではなくても数多くいるのではないだろうか。
 デイヴィッドの「Sickness(ビョーキ)」とは、まずはその視野の狭窄さであって、せっかくの彼の周辺にいる「彼のことを心配する」友人・知人を(まあ欠点はあるとはいえ)「アナベル問題」のために排除してしまうことも大きい。ここにせっかく、ハイスミスの作品に特徴的な「その関係性も<密>になりそうな男性の友人」や、「ちょっと距離を置くバランスの取れた女性」が登場するというのに、残念なことである。

 それでもうひとつ、この作品がいかにも「ハイスミス作品」らしくも面白いのは、主人公のデイヴィッドが「ウィリアム・ノイマイスター」名義で住まいと別の家を持っていて、その「ノイマイスター」の家でさいしょの「事件」を起こし、以後デイヴィッド・ケルシーはウィリアム・ノイマイスターとの二重生活を送るようになり、このことがラストでの彼の「分裂」へと誘導される。
 この「偽名」での二重生活というと、もちろんハイスミスのもっとも知られた『太陽がいっぱい』を想起させられるわけで、『太陽がいっぱい』では主人公のトム・リプリーはみごとにその「二重生活」をクリアするのだけれども、デイヴィッド・ケルシーは失敗するし、その「二重生活」ゆえの終盤の主人公の「混乱」の描写こそ、この作品の「読みごたえ」のあるところではなかろうか。わたしは堪能した。

 一般にパトリシア・ハイスミスは「ミステリー作家」とジャンル分けされ、この作品も「ミステリー」と読まれることを期待されているようで、この文庫本の「解説」にも、いささか強引にハイスミス作品を「ミステリー」と位置づけようとする論旨がうるさい*1。何度も書いているように、わたしは決してパトリシア・ハイスミスのことを「ミステリー作家」として読んではいないし、彼女の作品の面白さはそういう「ミステリー」(「ミステリー」とはどういう作品か、よくは知らないけれども)というジャンルに閉じ込められるものではないだろう。もっと、こういってよければ「実存的」なものではないかと思うのだ。

 この作品も例によって映画化されていて、なんとクロード・ミレールが監督してジェラール・ドパルデューミュウミュウ出演ということらしいが、日本ではちゃんと公開されていないのだった。それで、読んだところでは、パトリシア・ハイスミスジェラール・ドパルデューのことが嫌いだったのだという。うん、わかる。
 

*1:ついでだから書いておくと、前に読んだ『見知らぬ乗客』の「解説」で、執筆者は『妻を殺したかった男』にふれて、「この本はミステリに慣れない訳者によるせいもあってか、首を傾げる部分も少なくない」とまで書いているのだが、その『妻を殺したかった男」を翻訳しているのは佐宗鈴夫氏である。わたしはまったく「首を傾げ」たりはしなかったし、ジョルジュ・シムノンからエルヴェ・ギベールまでを翻訳されている佐宗氏の仕事は信頼している。そこまでにハイスミスを「ミステリー」ジャンルに閉じ込めたいのかと思うし、「そういうのならば『変身の恐怖』を訳した吉田健一氏に文句のひとつぐらいつけてみろ!」とは思うのだった。