ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『美学入門』中井正一:著

(この書物、わたしは中公文庫で買ったのだが、すでに絶版になっているみたいだ)

 ほぼ一年前に、この中井正一氏による『日本の美』を読んでいる。この本が近年読む2冊目の中井正一氏の著作だけれども、そもそもわたしは「美学」というものにさほど興味があるわけでもない。しかしなぜか、若い頃にいろんな本を濫読した時期に、中井正一の著作も何冊か買って持っていたのだった。ただその頃はそんな本をキチンと読むこともなく、いつか忘れてしまっていた。それが近年になって彼の著作が文庫化されて彼のことを思い出し、買ってしまったのだった。

 今わたしは、「いったいなぜわたしはその昔、中井正一氏の著作に興味を持ってしまったのだろうか?」と考える。その本が「美術出版社」から出ていた、美術に関する本という認識があったからだろうか? いや、そういう理由ならば「美術出版社」の刊行本はすべて買うぜ!みたいなことにもなりかねず、中井正一氏に興味を持つもうちょっと強い理由があったはずである。

 それでとりあえずはこの『美学入門』を読み通し、その第二部に「ハイデッガーの弟子」の「オスカー・ベッカー」という人物の名前に出会い、そこでわたしの中に、古い過去の記憶がよみがえる思いがした。
 わたしはその昔、そのオスカー・ベッカーの『美のはかなさと芸術家の冒険性』という本を読み、そもそもがそれまで「哲学書などまるで解さない」はずのわたしが、この本に関してはスイスイと理解された思いがしたわけで、まあ自分史の中で画期的な本との出会いではあったわけだと思い出した。
 それでなぜわたしがその『美のはかなさと芸術家の冒険性』を読むことになったかと考える(思い出す)と、それは稲垣足穂の『一千一秒物語』の中にあった『美のはかなさ』という小文にインスパイアされてのことではなかったかと思いあたった。
 もう今では、そんな稲垣足穂の『美のはかなさ』にせよオスカー・ベッカーの『美のはかなさと芸術家の冒険性』にせよ、その内容など記憶してはいないのだけれども、おそらくはそんな『美のはかなさと芸術家の冒険性』を読んだ体験から、中井正一氏の著作へと進んだのではないかと思う。

 記憶障害のせいで、この20年間ぐらいのことはどんなヒントを得てもわたしには思い出せないことばかりなのだけれども、もっともっと古い時代のことであれば、記憶を掘り起こせば「そうだった!」と思い出せることもあるわけで、そういう「記憶の掘り起こし」は、わたしにはとてもうれしい作業だと言える(ちなみに、この『美のはかなさと芸術家の冒険性』という書籍をAmazonで検索してみると、けっこうなプレミア価格がついていて、おいそれとは手が出せないのだった)。

 さてさて、この『美学入門』という本だけれども、二部に分かれていて、その第一部が「美学とは」で、第二部が「美学の歴史」となっている。この本の大きな問題はやはり、その「第一部」と「第二部」とのギャップの大きさだろうと思う。
 第一部は誰もがわかるような平易な言葉で、「わたしたちが生きていること」と「美学、美意識」との関係を語られているのだけれども、第二部はほとんど「哲学史講義」になる。長い人間の歴史を70ページほどに凝縮して書かれているので、「そういうこと、いきなり言われても困るんですけど?」みたいなことになるし、じっさいにこの本が刊行された1951年からはもうすでに70年の歳月も流れているわけで、ひとつには中井正一氏の持つ「史観」がもうオールドタイミーではないかと思うことになるし、「今の時代にはもうすっかり忘れ去られてしまった人たち」のことが、「今はこの人たち!」みたいに紹介されてもいるわけだ。

 読んでやはり、歴史に縛られている感のある第二部よりも、中井氏の考えを自由に語られている第一部に、読んでいて心に響く記述が多いと思った。
 例えば次のような文章には、70年の時の流れを超えて、普遍的なものがあるのではないかと思う。

 歴史的事実は、常に「聖なる一回性」としての厳粛性を帯びているのである。なぜならば、いかなる泡沫のような現象でも、常に歴史的な本質の表現であるからである。歴史の厳粛性は決して、神に帰する必要はない。それよりも、何びとの胸の中にもひそむところの、「この世の中が果たしてよくなって行くのであろうか。やっぱり駄目なのであろうか。」この断崖に立つときの苦しい人間の嘆息のゆえに、歴史は厳粛性をもっているのである。神々もこの嘆息を吐くときにのみ美しいのである。

 この第一部の終盤は、思いがけなくも映画についての記述がつづき、じっさいに映画製作にも関わられていたという中井氏の「思い入れ」を読むことができる。彼は「映画」の中に新しい「美学」の出現を見て、その将来に期待していたのだ。
 特に映画の中での「カット作業」に代表される「編集」ということ、その「切断」に新しい世界認識の契機を見ている。

 人間は、自分が見失っていた自らの方向を、カットとカットの切断の隙虚(げききょ)の中に撃発し復活するのである。社会的矛盾と欠乏を媒介として、みずからの本質を明るみにもたらすのである。