ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ランボーはなぜ詩を棄てたのか』奥本大三郎:著

 今、ランボーを読む若い人などいるのだろうか?

 この奥本大三郎氏の本にも、今から20年ほど前に奥本氏の大先輩のフランス文学者(教授)のところに学生が訪れ、大学祭でランボーについての公演を頼みに来たという話が書かれている。教授と学生の話はかみ合わない。何と、学生はシルベスター・スタローン主演の映画『ランボー』の話をしていたのだという。これはわたしにも信じられない話ではあるし、その学生はなぜシルベスター・スタローンの映画とフランス文学とが結びつくのか、小学生ほどの頭脳も駆使してはいない。
 たしかに今、ランボーに限らずとも、過去の「詩」作品を読むという空気はないだろう。そういうのではボードレールだろうがヴェルレーヌだろうが、キーツだろうがシェリーだろうが、ホイットマンだろうが誰だろうが読む人などほとんどいないだろう。翻訳詩に限らずとも、日本の詩人だって読まれはしない(って、わたしもほとんど読まないのだが)。

 「(スタローンではない)ランボーって誰?」という疑問は今はたいていの人が持つ疑問だろう。それでも、わたしなどがまだまだ若かった頃には、み~んなランボーを読んでいた。わたしだって読んでいたから、この奥本大三郎氏の本に出てくるランボーの「見者の手紙」とか、詩作品の「酔いどれ船」などはけっこう記憶していた。
 まあたとえばゴダールの『気狂いピエロ』が好きだという人なら、そのラストにランボーの『地獄の一季節』からの一節が引用されていたことは記憶していることだろう。

見つかったぞ!
何が? 永遠が。
太陽に溶けた
海だ
 (奥本大三郎:訳)

 ‥‥アルチュール・ランボーはすでに16歳にしていっぱしの傑作詩を書いていて、その詩をたずさえてフランスのシャルルヴィルという田舎町から、パリへと攻め入ろうとしたのだ。そこで射落とされたのがポール・ヴェルレーヌなのだが、単に「詩人」vs.「詩人」という関係に収まらなかった二人は痴話喧嘩的に破綻する。そしてランボーは、20歳にして詩作を放棄し、以降はアフリカでの商人としての生を生き、37歳で病死するのだ。

 「なぜランボーは20歳にして詩を棄てたのか?」という設問には気を惹かれる。というのは、けっこう多くの人がだいたい20歳前後で何らかの「夢」を放棄するのではないか、ということがあるからだ。わたしにしたって、その頃にはある種の「夢」は放棄しているわけだ。だから「ランボーはなぜ詩を棄てたのか」という設問にはどこか普遍的なものがあるのではないのか。もちろんランボーランボーで彼の個別の問題にぶっつかったわけだろうが、「なぜ?」ということは聞いてみたい。そういう興味からこの本を買った。

 たとえば16歳のランボーはやはり「才能あふれる」若者で、そして生意気な「ビッグマウス」であったということで、ちょうど今その評伝を読んでいるジェイムズ・ジョイスに似たところがある。ジェイムズ・ジョイスの評伝を読んでいても、「この人物も20歳ぐらいで文学を放棄する可能性はいっぱいあっただろうな」とは思う。ただ、ジョイスには彼がその地から離れても生涯捨て去ることのなかった「ダブリン」という街があった。そういうところでは残念ながら、ランボーの「シャルルヴィル」はそういう街ではなかった、ということは大きいのではないか。
 それは、その土地から人が継承する「文化」の問題なのだ。ジョイスはそのような文化をダブリンからたっぷりと吸収し、まずは『ダブリンの人びと』としてまとめることができたのだけれども、ランボーがシャルルヴィルから継承するものは何もなかったのではないか。
 だからこそランボーはシャルルヴィルを出てパリに行かなければならなかったのだけれども、それはたとえば1960年代のアメリカで田舎者がサンフランシスコに行っていきなり「ヒッピー」の洗礼を受けるようなものだったろう。とにかくは「ドラッグ」はやるぜ、そこでランボーも才能はあるから、ドラッグ体験から「傑作」といっていい詩作品は書いただろう。
 わたしはあらためて、この奥本大三郎氏の翻訳で、そんな時代のランボーの詩作品を読んだのだが、それはたとえばジャン・デルヴィルの絵画作品のような、極彩色の奇々怪々なイメージの連続ではないかという印象も受けた。このことはそれまでわたしが勝手に抱いていた「ランボー」像との乖離もあり、「そうか、そうなのか」という感じも受けたものだった。
 奥本大三郎氏によれば、ランボーはそんな「ドラッグ体験」にのめりこむタイプではなく、「いいかげんこんな体験から逃れたい」というところがあったのではないかといい、それがランボーが詩を棄てたひとつの理由ではないかという。面白い。60年代風に言えば、彼は「ドロップアウトしそこねた<ヒッピー>願望だけの若者だった」とでもいうところだろうか(このたとえはマズい。もちろんこのことはランボーに<才能>がなかった、ということではない。今は名前を忘れたが、「ヒッピーなんてみ~んなアホでね!」とのたまった作家もいたのではなかったか? たとえばフランク・ザッパなんかもそんなこと言っていただろう?)。

 もうひとつ、この本を読んで「これだね!」と思ったのは、「音楽」のこと。シャルルヴィルで16歳まで過ごしたランボーは、いわゆる「表現」としての音楽に出会う機会がなかった。だからランボーがパリに出たとき、まわりの詩人らが「音楽」を賛美し熱狂する<感覚>が、まるで共有できなかったのだ。これはヤバい。ランボーはこの「出遅れ」を、けっきょく克服できなかっただろう(そうすると、この本の帯に書かれた「聞こえるぞ 19世紀のロックンロール」などというのは思いっきり「的外れ」ではないかとは思うのだが)。
 その後の時代であれば、ラジオ放送も始まり、蓄音機は普及するであろうし、そういう「地域的格差」というものはなくなってしまったことだろうが、ランボーの時代にパリのような「都会」との格差というものは、文化受容ということで大きな意味を持っていたことだろう。
 いくら文学作品は読み取れても、「音楽」享受はあかんかった、というところだろうか。この説にはわたしもけっこう納得してしまった。

 というか、やはりランボーの「後半生」を含めた、ランボーの生涯の評伝を読んでみたいものだ。