ライヴァルとして競い合ったふたりのマジシャン(ヒュー・ジャックマン&クリスチャン・ベール)のエグい舞台裏(の、命を賭けた抗争?)を描く作品。
このふたりの確執は、まずは舞台でのヒュー・ジャックマンの「縄抜けマジック」の場で、じっさいに演じるヒュー・ジャックマンの妻の腕に縄をかけたのがクリスチャン・ベールで、その縄をほどけずにヒュー・ジャックマンの妻は溺死してしまうことから始まる。「では、なんでクリスチャン・ベールはそんな<人が死ぬかもしれないような>解けない縄縛りをやらかしたのか」という説明はない。いくらその前からふたりに<確執>があったと考えても、これは「やり過ぎ」であろう。クリスチャン・ベールは、「どんな結び方をしたのだ?」という質問に「記憶にない」と答えるだけ。それでは<ドラマ>は成立しないだろう。
クリスチャン・ベールを恨んだヒュー・ジャックマンはクリスチャン・ベールの「弾丸受け」マジックに細工をして、クリスチャン・ベールは左手の薬指と小指とを失う。
ふたりのほんとうの「競い合い」は、互いに同時期に「瞬間移動術」を行うことで燃え上がるわけだ。ここに、アメリカに新天地を求めて研究所を設けていたニコラ・テスラ(デヴィッド・ボウイ)も登場してしまう。
まず、このニコラ・テスラとその研究の描き方がヤバいというか、これでは観客はニコラ・テスラのことをただひたすら「誤解」するしかないだろう。このような「いい加減」な脚本を書いたことで、クリストファー・ノーラン(と、弟のジョナサン・ノーラン)は有罪であろう。
それでいちおう、観客としては「そのマジックの<タネ>はどうなってるのよ?」という興味で観続けるかと思うのだけれども、まあ一方のクリスチャン・ベールの方の「双子だったのよ」というのは最低限許すとして(原作はそういう話らしい)、一方のヒュー・ジャックマンの方の<タネ>ときたら、映画館ならばスクリーンに思いっきり生ゴミをぶちまけてやりたいぐらいのモノである。
<創作>というものは、つくる側も必死で「どうよ!」ということを読者とか観客に提示すべきであって、そんなことをすっ飛ばしてただ「超常現象」みたいに「こうなのよ」ですませようというのは、まるで観客を小バカにしているとしか言いようがない。つまり、そもそもこんな<タネ明かし>ならば、「実はニコラ・テスラは<瞬間物質移動装置>を完成させていたのだ!」ですむわけだ。この映画、けっきょくマジシャンの本来のプロフェッショナルな努力も科学者の探求も描かず、ストーリーを「瞬間移動」させただけなのである。観客をバカにするのもいい加減にしていただきたいものだ。