ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『殺意の迷宮』パトリシア・ハイスミス:著 榊優子:訳

殺意の迷宮 (創元推理文庫)

殺意の迷宮 (創元推理文庫)

 この作品は2014年に、イランの監督ホセイン・アミニの脚本と演出によって映画化されている。もちろんこの映画もわたしは観ているが、もうほとんど忘れてしまっている。キャスティングはすばらしいもので、チェスターをヴィゴ・モーテンセンが演じ、その妻のコレットキルスティン・ダンスト、そしてライダルを演じたのはオスカー・アイザックだった。

 舞台は1962年頃のギリシャ。ライダル・キーナー(25歳)はしばらくヨーロッパでぶらぶらしている男で、親せきの遺産でそんなに金に困ってはいない。ギリシャ語やイタリア語、フランス語に通じているようだ。
 そこにチェスター・マクファーランド(42歳)が若い妻のコレット(25歳)とともにギリシャにやって来る。実のところ彼はアメリカで詐欺をはたらいていて、警察の手がまわってきたために逃亡してきているのである。英語以外はほとんど話せない。
 ライダルは街角でチェスターを見かけて、彼がしばらく前に亡くなったという自分の父親にそっくりだと思う。ライダルの父親への感情はアンビヴァレントなものがあり、学者としての父を尊敬するところもあり、自分を貶めて進学コースから外れさせた父への憎悪もある。
 そしておまけに、チェスターの連れたコレットがまた、ライダルの昔の恋人(これまた、ライダルにはよい思い出もない)を強烈に思い起こさせるのであった。まあ「運命の出会い」と申しましょうか。

 つまり「これは運命だ」とでも思ったライダルは、チェスターの宿泊するホテルへと入っていくのだ。ところが折も折、そのときチェスターの部屋にはギリシャの刑事が訪れていて、「あんたはアメリカで手配されているチェスター・マクファーランドだろう」と迫っていたのだ。逃れようとしたチェスターは刑事を転倒させ、刑事は頭部を強打して死んでしまうのだった。
 チェスターが廊下の奥にある掃除用具入れに死体を運ぼうとしているところにライダルが階段を上ってきてしまうわけで、目撃したライダルはそこでチェスターを手伝って死体を隠すのだった。ここで、チェスターとライダルは「共犯関係」でつながれてしまうのだ。

 ライダルは自分の知っている闇ルートから、チェスターに「偽パスポートをつくれ」とすすめる。チェスター夫婦とライダルはバーに飲みに行くのだが、そこでチェスターの妻のコレットはライダルを誘惑するともとれる行動をする。いっしょにダンスを踊り、チェスターはそんな二人をにがにがしく眺めるのだ。彼は「ライダルとは別行動を取りたい」と思うのだが、しかしライダルが警察に「刑事殺し」のこと、「パスポート偽造」のこと(ライダルはチェスターの偽パスポートで彼の新しい「偽名」を知っている)を密告することを怖れ、いっしょの行動をするしかない。
 ライダルはチェスターとじっさいに会って話してみると、自分の父とは比べようもないチンケな男だとは思うし(とはいえどもやはり、父に似ているのだ)、コレットの誘惑も「けむったい」ところもあるのだが、彼は彼でチェスターが今逮捕されると自分が「刑事殺し」の共犯者にされてしまうことを怖れる。

 そして三人はクレタ島へ共に行くことになるのだけれども、コレットのライダルへのアプローチはつづき、チェスターの嫉妬も大きくなる。チェスターは「ここでライダルを殺害してしまえばいいではないか」と、クノッソスの迷宮の遺跡で上から石の甕を落として下にいたライダルを殺そうとするが、その甕はそばにいたコレットの頭に当たってしまい、コレットは絶命する(ここまで、適当に要約して書いたけれども、作品ではこの三者の心理はさまざまな模様を描き、コロコロと変化していくのだ)。

 チェスターとライダルとは、別々にクレタ島から逃れるのだが、それから先も、お互いの存在は恐るべき障害物として残ることになる。もちろんチェスターのライダルへの<殺意>は、コレットの死でさらに強くなっているし、ライダルもまた、自分を殺そうとしたチェスターの最後をみとどけたいと思う。場所をギリシャからパリへと移動させ、二人の互いへの憎しみもその方法を探りながら爆発しようとしているのだ(ここからも、二人の心理は要約しきれないくらいにコロコロと変化していくのだ)。

 まあ結末のことは今は書かないでおいて、読み終えた感じとしては「今までのハイスミスの作品とはどこか違うな」という思いが強い。たいていのハイスミス作品では「ちょっと歪んでしまった男」が、いつしか大きく道を踏み外してしまうようなテイストの作品が多かったと思うのだが、この作品では一方のチェスターはずっと「小悪党」のままで(実はラストに、まるで異なる側面を見せてわたしを驚かせるのだが)、ライダルにしても「ファザコン」、「前の恋人への愛憎」とかはあるのだけれども、そういう意識はけっこうストレートなもので、むしろ両者とも、「追ってくる警察をどうするか」ということが、大きな行動原理になっているように思えた。
 そういう意味では、いつもどこか「ミステリー」とも「サスペンス」ともつかない、いやむしろ「文芸作品」ではないかという面白さを味わせてくれるハイスミスの作品としては、これは「サスペンス」色の強い作品といえるのではないだろうか。

 「パスポートの偽造」であるとか、「二人の男のかけ引き」とかいうことでは、あの『太陽がいっぱい』を、それもハイスミスの原作ではなくてルネ・クレマンによる映画版(アラン・ドロンモーリス・ロネとの愛憎によるかけ引きは原作になかった面白さだった)の方のことを思い浮かべてしまうのだけれども、どうも思うところ、パトリシア・ハイスミスルネ・クレマンによる『太陽がいっぱい』を観て、「それでは」という感じでこの『殺意の迷宮』を書いたのではないかとも思ってしまうのだった。ちなみに、映画『太陽がいっぱい』の公開は1960年で、この『殺意の迷宮』が発表されたのは1964年のこと。
 クレタ島の遺跡を作中に取り入れるとか、いろいろと、ハイスミスの作品の中では映画化されることを望んで書かれた作品のようにも思えてしまう(映画化されるまでにはちょうど50年待たなければならなかったわけだが)。

 ラストの、ある意味「どんでん返し」のことはマナー上も書かなかったけれども、そこまで読んで「グッ」ときてしまい、ハイスミス作品では珍しくも、感動を憶えてしまったわたしがいる。