ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-08-22(Sat)

 昨夜のポークソテーとかで少しは元気になったかなと思ったのだが、やはり倦怠感が大きくて何もやる気がしない。天気予報では今日あたりから気温も下がるような予報だったけれども、やはり暑い一日だった。一歩も外に出なかったし、食事もいいかげんにすませてしまった。

 このところ、というかCOVID-19禍以降、まるで「お出かけ」ということをしないし、人に会うこともない。そのこと自体に「何とかしたい」という気もちがあるわけでもないのだけれども、自分の中で精神の停滞があるのではないかと思う。人との会話がないと、自分の考えに閉じこもってしまうのではないか。人に「自分はこう考える」と語り、そのこととは異なる考えを人から聞き、「対話」などへと発展していくのは精神活動の上でたいせつなことだろうと思う。

 わたしもSNSはやっているけれども、もう今はFacebookへの書き込みはまるで休止状態だし、Twitterは「対話」というものでもなく、ただ「他で報道されないニュースを知るため」という面が強い。

 「人の考えを知る」ということでは、今は本を読む、そして映画を観るということがその代替手段になることも考えられるけれども、映画に関してはわたしは大きなライブラリを所有しているわけでもなく、つまり一本の映画を観たことがその他の映画へと受け継がれることがない。一本一本の映画を単独で楽しむことは普通に誰もがやっていることで、娯楽の享受として間違っているわけもないのだけれども、「この映画はなぜこのような表現をするのだろう」と考えると、その映画を撮った監督の表現志向を考えざるを得ない。つまり「作家主義」なのだが、そのことを考えるためにはその監督の全作品を観るとかしなければならないが、わたしは今そういう環境にいるわけではない(かろうじて、溝口健二監督の作品はそれなりに観て、記憶にも残っているといえるかもしれないが)。
 だから今わたしは映画を観るのは、これはほとんど「娯楽」としてであり、言ってしまえば「ひまつぶし」的な面が大きい。まあそれでもその映画から受け取れることを考えはするけれども。

 「本を読む」ということでは、自分の持っている本だけでも、けっこうそうやってその作家のことを知るという読み方はできる。特にウラジーミル・ナボコフパトリシア・ハイスミス(まったくつながりもない作家二人だが)との著作はけっこうそろっていて、だから今はナボコフハイスミスの著作を中心に読んでいるわけで、彼、彼女の著作を読み進める中から、おのおのの作家の指向性を読み取ろうとしているところはある。もちろん、この二人の作品だけでなく他の作品も読んだりするが。

 それで今日はまた「GYAO!」の無料配信映画で『あゝひめゆりの塔』という作品を観始めたのだけれども、映画冒頭が沖縄の女学校の運動会で、そこに訪れた来賓だか何だかが、「いやあ、女学校も美人が多いんですね!」などと語るものだから一気に観る気が失せてしまい、観るのをやめてしまった。別に1968年の映画に対して「ルッキズム」だとか批判してもしょうがないのだけれども、自分たちで「美人」と思える女優たちを集めておいて、それで「美人が多いですね」というセリフを入れるのは、もう「リアルに映画をつくろう」という気もちがまるっきしないということだろう。バカバカしくなってしまうのだ。
 今日は映画を観るのはやめて、読みさしの『カフェ・パニック』をベッドに寝転んで読了した。面白かった。

 今夜もベッドに寝ているとニェネントが何度もやって来て、わたしの横に並んで寝そべったりもしていた。昨日今日と嘔吐もしなかったし、健康にも問題ないだろうか。

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