ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』ウラジーミル・ナボコフ:著 富士川義之:訳

 書き手である「V」は、1936年に夭折した兄の小説家、セバスチャン・ナイトの精緻な「伝記」を書こうとしている。その背後には、セバスチャン・ナイトの晩年に彼の秘書を務めたグッドマンなる人物による『セバスチャン・ナイトの悲劇』という伝記、Vによれば「唾棄すべき書物」であるだろう書物がベストセラーになっていることへの対抗意識があるのだろうか。いや、Vがグッドマンがセバスチャン・ナイトの伝記を出版しようとしていることを知ったのは、Vが兄のセバスチャン・ナイトの伝記を書こうと調査を始めたあとのことではある(このVによる作品は、セバスチャン・ナイト没後の同じ1936年に書き始められているという設定である)。

 ナボコフ自身と同じ1899年に生誕し、ロシア~ソヴィエトから亡命してイギリスへと渡り以後作家となるセバスチャン・ナイトは、当然のように作者のナボコフ自身を想起させられ、おそらくはVの知るセバスチャンのロシア時代はナボコフ自身の体験が投影されていることだろう。つまり、「セバスチャン・ナイト」とは「ナボコフ」自身だろう、との読み方が可能だろう。
 Vはセバスチャン・ナイトの残した5編の作品のあらすじを書き、分析するのだが、そのセバスチャン・ナイトの小説はどこか「探偵小説」風でもあり、「真実は見えている世界の裏側に隠されている」というような視点も感じさせられる。ひょっとしたらナボコフにも、じっさいにこのような小説を書いてみたかったという気もちもあったのかもしれないな。

 ここまでの記述は、「まあ伝記を書くのであれば常套的な路線だろうな」とは思うのだが、これが(ライヴァルのグッドマン氏に面会するあたりから)変化して、Vによる兄セバスチャン・ナイトの「生」を追跡する経路こそがメインとなり、まさにセバスチャン・ナイトの小説的に「探偵小説」的な展開へとなだれ込んでいく。

 わたしはこの小説を今まで2度ほどは読んでいるはずだけれども、この、Vが兄のセバスチャン・ナイトの晩年の「生」をたどる過程はやはり面白い。特にセバスチャンがさいごに惑わされたであろう「ニーナ」なる女性を捜し求める展開、いつの間にかV自身もまた、その「ニーナ」に惑わされそうになる過程(まさに「探偵小説」的に真相を知るVだが)、「ニーナ」、実は〇〇であった女性のファム・ファタール的な魅力ときたら、これはナボコフの全作品の中でも白眉の登場人物ではないかと思う。
 わたしはついつい、このVと「実はニーナ」なる女性との出会い、その発展をヴィジュアル的に脳内に思い浮かべてしまうのだけれども、わたしの中ではここで彼女を演じるのは、ぜったいにデルフィーヌ・セイリグでなくってはならない。ぜったいに(ということは、デルフィーヌ・セイリグがとっくに亡くなられてしまわれた今、そのことだけでこの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』の映像化はもはや不可能なのだ)。

 セバスチャン・ナイトの臨終に間に合わず、すれ違ってしまったVはこの小説のラストで、「ぼくはセバスチャン・ナイトなのだ」との認識に達するのだけれども、ここで考えなくてはならないのは、書き手である「V」とはまさに作者のウラジーミル・ナボコフの「分身」であるということで(「V」とは「ウラジーミル(Vladimir)」の「V」だということ)、ここでVが「ぼくはセバスチャン・ナイトなのだ」ということは、ナボコフ自身が「ぼくはセバスチャン・ナイトなのだ」と表明していることでもある(そしてもちろんさいしょに書いたように、セバスチャン・ナイトにはナボコフ自身が投影されてもいるだろうことは、容易に想定できることがらではある。ここで「ナボコフ=セバスチャン・ナイト」かつ「ナボコフ=V」という構図が読み取れる)。
 それは皮相な読み方でもあるのだけれども、そこから終末の「ぼくはセバスチャンなのだ。あるいは、セバスチャンがぼくなのだ。あるいは、おそらくぼくたち二人は、ぼくたちも知らない何者かなのであろう」と読み進め、「ぼくたちも知らない何者か」について思いを馳せることこそが求められているのだろう。それはおそらくはひとつには、「文学」という大きな世界の中での「何者か」ではあるのだろうか。