- 作者:パトリシア ハイスミス
- メディア: 文庫
- 作者:パトリシア ハイスミス
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そしてこの『イーディスの日記』もまた、十何年かにわたるある家族のことを描いた作品で、この作品でも警察が乗り出してくるような「事件」は起きないのである。しかし‥‥。
その家族とは母親のイーディス、そして父のブレット、息子のクリッフィーとの3人家族で、ニューヨークからペンシルバニア州のブランズウィックというところに新居を設け、転居してくるところから始まる。イーディスとブレットは地元の人と協力して、リベラルなミニコミ誌をの発刊を計画している。そのとき、クリッフィーはまだ11歳だっただろうか。
そのうちに、ブレットの老齢の伯父が調子よくその新居に移り住んでくる。そしてなんと、ブレットは若い愛人をこさえて「彼女といっしょに暮らす」と家を出てしまう。イーディスは伯父に介護付きホームに入所してもらいたいのだが、伯父は頑として受け付けない。ブレットはわずかな援助金を送ってくるだけで、この件を積極的に解決しようとしない。そして、だんだんに、成長したクリッフィーが「役立たずの脳なし」だということもわかってくるのだ。
イーディスは地元の人たちと協力しミニコミ誌も発刊できるようになり、近所の人たちとも順調に交友をつづける。しかしクリッフィーは大学にも進学せず、たまに近所のバーを手伝って小遣いを稼ぐぐらい。伯父はだんだんに老いてほとんど寝たきり状態に近くなる。クリッフィーは伯父の部屋に立ち入り、伯父に処方されたコデイン(麻薬成分を含む)をちょろまかしていることをイーディスはうすうす気づいている。
時代はケネディの暗殺、ジャクリーンの再婚、そしてヴェトナム戦争の泥沼へと突入する時代ではある。リベラルな視点からのイーディスらのミニコミ誌は順調に購読者を得ている。
一方、イーディスは若い頃から分厚い本の体裁をした「日記」をつけているのだが(わたしのように「毎日」日記を書くのではなく、何ヶ月おきにだったりする)、そのうちにクリッフィーについての記述は「優等生」としてごまかされて書かれるようになり、日記の中ではクリッフィーは結婚し、子供も産まれて、有能な技師として中東に派遣されていることにされる。
もうひとつ、イーディスは塑像をつくるという趣味をはじめ、まずはクリッフィーの頭像を作成する。
作品はすべてイーディスの視点、もしくはクリッフィーの視点からのみ書かれているのだけれども、ナボコフの作品の「信頼できない語り手」のように、その語るところには客観性が欠けているところがあるのだ。
実は伯父が亡くなり、このことにはクリッフィーの「未必の故意」があり、それはイーディスも伯父の担当医もわかっているのだけれども、父のブレットはそのことを推測して問題視、追及したりする。このときイーディスとクリッフィーは「共犯者」として、それ以降の関係がうまく行きそうになるのだが、だんだんにイーディスの精神状態に異変が見られるようになると隣人たちは言い、ブレットの耳にするところともなる。
イーディスがミニコミ誌に書く文章も、他のメンバーから疑問が呈されることが多くなるわけで、イーディス自身も「自分は右傾化しているのだろうか」と思ったりするのだが、例えばアフリカ系の人々に子どもが産まれたら、白人家庭に養子に出して育てた方がいいだの、アメリカ軍が撤退を始めたヴェトナムのことを、「このまま撤退してもヴェトナムの人たちで事後を収拾できるわけもないから、撤退してはいけない」などとも言う。一種「白人優生主義」でもあるだろうか。
つまり、周囲からみればイーディスは狂気に陥っていると見られるようなのだが、この小説はイーディスとクリッフィーの視点からしか書かれていないので、「たしかにイーディスは狂っていたのだ」と読者が言い切ることは出来ないのではないか。ただ、周囲の人が皆、イーディスのつくった塑像作品を精神医に見せたらどうかと言い張るわけで、イーディスの視点からは「うまく出来た作品」なのだが、客観的にみれば「狂気の兆し」の顕わな作品、なのだろう。
この作品の冒頭、イーディスが若い頃に日記に書いたという文章が興味深い。
「人生なんてなんの意味もないと考えた方が無難だろうか? その方が賢い生き方なのだろうか?」
この文に対応したような、クリッフィーの独白もあとで出てくる。
「人生にいったいなんの意味があるというのだ? なにもありゃしない。人生は冗談にすぎないのだから。」
さらにイーディスは、以下のように考えることになる。
「考えるな、ただ体を動かせ」というのが彼女が自分自身にいい聞かせている言葉だったが、ときおりこれに「意味を見つけようとするな」が加わった。たとえいっときでも人生の意味を考えようなどという気を起こせば、たちまち途方にくれてしまうことはわかっていた。もはや彼女をつなぎとめていたほんとうの錨――それはブレットではなく、ある種の深い忍従だった――がないことを思い知らされるからだった。イーディスはそれをなんと名づけるべきかは知らなかったが、それがたしかに存在し、どんなものであるかは知っていた。それはある意味で、彼女がこの世の中に対して唯一感じることのできる、あるいは感じることのできた一種の安定感にも似た感情だった。
しかし、彼女は日記の中に、「現実と夢の世界の差は、耐えられない地獄だ」とも書いていたのだった。
読者はつまり、単に「イーディスは狂気に陥っていた」と断定するのではなく、「イーディスの<踏み外し>はどういうところにあったのだろうか?」ということを考える作品ではないかと思った。