ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『沖縄の民』(1956) 古川卓己:監督

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 今、ソフト化されていない戦争を描いた邦画が何本か、「GYAO!」で無料配信されている。この作品もその一本だけれども、他の作品も時間があれば観てみたい。

 映画は1944年7月から始まる。左幸子の演じる小学校の教諭が、生徒・学童らに向かっていて、黒板には「対馬丸」と書かれている。校庭には日本軍兵士らが行進してくる。「これからは戦争だ!」という導入部だけれども、まずはその「対馬丸」が魚雷で撃沈される。知らせを受けた父兄の怒りの矢面に立たされた小学校の校長は自殺する。
 1945年4月に連合軍は沖縄本島の中央部に上陸し、その後沖縄は島の北部と南部とに分断された戦闘が繰り拡げられる。北部へは左幸子ら多くの島民が逃れ、指導者もなく飢えに苦しむ。南部ははげしい戦闘が繰り返され、学生らによる「学生隊」も兵士と共に戦う。その中に長門裕之の姿もある。

 この作品のロケはもちろん米軍統治下の沖縄で行えるはずもなく、静岡や神奈川でロケ撮影をしたらしいが、壕など、それらしい雰囲気は出されている。この作品で半端ないのは使用している火薬量というか、とにかくはやたらと土砂を巻き上げての爆弾の破裂の連続で、それが遠景からカメラのすぐそばの「それは危険」というところまで、あっちこちでバンバン破裂するのである。
 それはそれで演出としてすごいことでもあるだろうけれども、これは考えてみたら日本兵、島民を攻撃する連合軍兵の姿を出さないための演出ではないのか。観ているとだんだんにその「演出」というか、「ほんとうの戦いはこんなではなかっただろうに」という思いが強くなる。
 まずはじっさいには連合軍側は火炎放射器による「焼き討ち作戦」をおこない、戦場はそれこそ「修羅場」の様相を見せるはず(多くのドキュメンタリーで目にしている)なのだが、そのようなシーンはない。
 また、連合軍は何度も生き残り日本兵、沖縄島民に「投降」を呼びかけるわけだけれども、わたしたちは日本兵も沖縄島民もほとんど投降せず、自死同然のあまりにも悲惨な死を選んだことを知っている。しかしこの映画ではたいていの沖縄島民は日本兵を残して投降し、残った日本兵のみが手りゅう弾などで自爆するように描かれている。
 映画に登場する連合軍は人道的で、投降した島民らには笑顔が戻ってくるわけだが、この映画には島民の4人に1人が亡くなったという悲惨さはまるで描かれていない。

 この映画の製作された1956年にはGHQも解散していて、特にアメリカに忖度する必要もないだろうとは思うのだが、この映画のラストシーンなどは「アメリカに占領されて沖縄に平和が戻った」みたいな印象になる。というかこの作品、この1956年にアメリカ占領下にあった沖縄の現実を忘れて、沖縄の島民にのみ「沖縄の再建を!」と語らせる能天気な作品ではあろうかと思う(まあラストの小学生の作文の朗読に、アメリカ軍のジェット機の轟音をかぶせたりはしているのだが)。
 2020年になった今でも、安倍政権は沖縄にさまざまな「いやがらせ」のような政策をおこない、本土から沖縄に渡った官憲らは沖縄島民のことを「土人!」とまで呼び捨てているのが現実である。

 この作品は、ある意味で「裏切りの映画」ではあると思う。その「裏切り」とは何なのか、そのことを考えるだけでも意味のある作品ではあっただろうか。