ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『大怪獣のあとしまつ』(2022) 三木聡:脚本・監督

 なぜかこの映画、松竹と東映の共同製作、共同配給になっている。この日本映画界を代表する、古い歴史を持つ2社がタッグを組むのは、これが初めてのことらしいのだが、それだけこの映画に賭けるものが大きかったのか。
 しかし、けっこう「ゴジラ映画」と連続して考えた観客も多かったらしく(予告編のせいだ)、それなりの興行収入はあったらしかったけれども、その「ゴジラ映画」との関連で「一種のシリアスな怪獣映画」と予想した観客の「失望感」は大きかったらしく、映画の評価としては極めて低いモノになっているようだ。わたしもそういうのをちょっと読んでみたけれども、「寒いギャグの連発」とか「ギャグがすべってる」という評が多い。わたしも、ある面ではそういう評価に同意するところもあるのは確かだが。

 つまりこの映画、「支離滅裂」な基本アイディアを、どうやって作品にするかという悪戦苦闘(?)の成果であって、冗談みたいなコミカルな発想をどこまでリアルに撮るか、ということのように思える(そのことはこの映画の、「この大怪獣の死体をどう始末するか?」ということとシンクロしているのだ)。このことはあとに書く「デウス・エクス・マキナ」という概念と関係してくるのだが。
 ここで「冗談みたいなコミカルな発想」というのはすべて日本の首相、および内閣の閣僚らがしょーもない会議で決めてしまうことで、その決定はとにかく「国防軍」か「特務隊」というところにまかされ、ここで「現場の苦労」が基本はリアルに、そして多少は冗談っぽくも撮られて行く。
 こういう構造は、「国防軍」とか「特務隊」のことは置いておいても、ある意味で日本の政治構造のパロディの体を成しているだろう(例えば死んだ大怪獣に「希望」という名まえを付け、それを発表するシーンは「平成」「令和」の年号発表のときの明らかなパロディであった)。

 そんな内閣の閣僚らは、いかにも三木聡監督のお気に入りの俳優らで演じられ、「そこまでハメを外してもいいのだろうか?」と思うような「悪ふざけ」と言えるような演技を披露してくれる。まるでコメディ演劇の舞台だ。まあそんな閣僚を演じる俳優らでいっちばんはじけていた印象を受けたのは、三木監督夫人のふせえりではあったと思うが。

 閣僚らのおちゃらけぶりに反して、現場の人たちは基本はすっごいシリアスに(マジメに)演じていて、主人公の帯刀アラタ(山田涼介)にせよ、雨音ユキノ(土屋太鳳)にせよ、ジョークなど飛ばさずに任務にしかと取り組んでいるし、ユキノの兄の青島(オダギリジョー)など、「ヒーロー」のカッコよさを体現していた。
 まあそんな「現場」に、ちょっと異次元の空気を持ち込んでいたのが菊地凛子で、やっぱりわたしはこの女優さんが好きだなあ。出番はそんなに長くはないが、彼女の登場でこの映画はずいぶんと救われている、などとわたしは勝手に思うのだ。ある面で、映画の中の閣僚たちの「ナンセンスさ」と、現場の「シリアスさ」を連結する貴重なリンクの役割を果たしていたとは思うのだが。
 日記の方に「松重豊がどこに出ていたのかわからなった」と書いたが、さっき飛ばして観直して、あの八見雲(やみくも)氏を演じているのが松重氏だとわかった。笑えた。
 ちなみに、どうでもいいことだけれども、土屋太鳳のスクリーンデビューは黒沢清監督の『アカルイミライ』で、その『アカルイミライ』の主演はオダギリジョーだったわけで、二人はそれ以来の共演になるわけだった。

 基本の根本概念は、映画の冒頭で首相(西田敏行)が語る「デウス・エクス・マキナ」という概念であって、つまり「え? そんなことですべて解決しちゃうの?」っつう話。これはわたしが先週観た『大怪獣ガメラ』のラストにまったく唐突に登場した、火星行きロケットのようなもので、いやあわたしは先にその『大怪獣ガメラ』を観ていたもので、別に腹も立たずに「ま~たやってるよ!」みたいな気もちでラストを眺めていて、救われた。『大怪獣ガメラ』は無敵である。

 わたしはそんな閣僚らの「悪ふざけ」のような演出と、現場の人たちのけっこう「シリアス」な演出との乖離がありすぎて、その「大きな溝」をうまく埋める演出が出来ていなかったとは思うのだけれども、自分自身はけっこう楽しんで観ることが出来たと思う。まあ「正月元日」に観るのに相応しい映画だった、だろうか(あと、途中から「音楽がいいな」と思いはじめてみていたら、ラストのクレジットをみると音楽は上野耕路なのだった)。