ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『没後50年 坂本繁二郎展』@中村橋・練馬区立美術館

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 坂本繁二郎の、「馬」の絵の記憶はある。若い女性の半身像も記憶しているが、それ以外のこの人の画業を知っているわけではない。しかし、こういう大掛かりな「回顧展」というものは、その画家の生涯の画風の変遷をみせてくれるわけでもあるし、そういう意味では坂本繁二郎という人はしっかりと、その変遷をみせてくれる画家だろう。先日観た速水御舟の回顧展よりも、(長命だったということもあって)大きな画風の変化を見せてくれる。

 この人は、若い頃は「神童」と呼ばれたらしい。15歳のときに描いた日本画の「滝」の絵など、たしかに強烈だ。それが、洋画家の絵画教師についてしまうことで「道を誤った」感がある。教師は凡庸で、展示されていたその教師の作品をみると、浅井忠の強い影響が感じられる。ここで坂本繁二郎も浅井忠の延長線での作品を描き始める。‥‥むむむ、ここで日本画の教師に師事すればどんな未来がひらけていたことだろうか?と思わざるを得ない。
 ここで、同郷の同学年の「青木繁」が、彼の前に登場する。先に上京して絵を学んで郷里に帰った青木繁の作品をみて、坂本は「自分も東京へ行かなくては」と思う。20歳ぐらいの頃には、青木と共にスケッチ旅行に出かけたりしているのだが、そもそも文学趣味も豊富でロマン派的気質を持つ青木と、共有できるものはなかったのではないだろうか。
 「写生」にこそ自分の絵画の道を定める坂本は、だんだんに浅井忠的な視点、描写を捨て、まずは「牛」を描いた「うすれ日」が夏目漱石の評価を受けたり、注目される。この「うすれ日」はもちろん展示されていたが、これは良かった。とってもいい。ここで坂本が描いているのは「光」であり「色彩」なのだけれども、それは「印象派」などの影響をダイレクトに出さずに消化した、彼独特の「光」と「色彩」だと思った。
 当時の多くの画家がそうだったように、「オレもフランスへ行く!」となる。これは坂本より4歳年下の藤田嗣治のフランス留学より遅く、すでに彼は40歳に近くなっている。坂本は当時の「エコール・ド・パリ」の趨勢などには無関心で、ただブルターニュの風景を描く(「人物」を描いた例外的な作品として「帽子を持てる女」という秀作はあるが)。
 三年後に故郷の久留米に戻った坂本は、以後終生久留米~八女で絵画を描き続けることになる。この頃には「馬」を描き続け、戦後には「静物画」ばかりを描く。晩年に視力が衰えてからは、「月」を描くことになるだろう。

 展覧会全体を見て思うのは、やはり坂本繁二郎という人は「写生」の人、ということだ。「牛」を描いた「うすれ日」から、フランス留学の時期を経て、坂本は「色彩」をみつけたのだと思う。それはいってみれば空の「ライトブルー」と「ピンク」との調和する世界であり、この色彩世界は彼の「馬」の連作によく見ることが出来る。

 坂本繁二郎には「学者肌」なところがあり、「優れた絵画論」をいくつも著しているということがWikipediaには書かれているが、この展覧会を観たわたしの感想では、坂本繁二郎とは「無思想の人」であると思う。彼には青木繁のような文学的バックボーンはなかったし(そのことを坂本繁二郎は自覚していたことと思う)、「絵」の中に「絵」を裏付ける「思想」は求めなかった人。だから彼がフランスに行ったとき、フランスでの同時代的な絵画を革新する運動にはまるで興味を持たなかった。
 彼の絵はある意味「世捨て人」の絵であり、晩年の静物画には、どこか「文人画」めいたところもある。今回の展覧会には、その後半に山のようにそんな「静物画」が展示されていたが、わたしにはその良さなどまるでわからなかった。アマチュアリズムの極致というか、たとえば武者小路実篤の描いた色紙のたぐいとの差異がわからない。正直言って、「下手」だと思う。そして、何の意味もない。つまらない作品群だ。
 彼がどういうことから「日本を代表する洋画家」と目されることになったのかわからないが、とりあえずは戦後に彼を支えたパトロンが存在したようで、そのパトロンの<日本画壇>へのはたらきかけが功を奏したのだろうか。「馬」を描いてくれという注文を受ければちゃっちゃっと描き、モーターを造る地元の工業会社から「ウチの会社が造ったモーターを描いてくれ」などという、ある意味「とんでもない」注文を受けても、きちんとそのモーターの絵を描いて納める(その作品も展示されていた)。

 近年までの日本において、「絵描きというのは世俗から超越した存在」という思い込みを形成したのが、(その仙人的な容貌もあって)この<坂本繁二郎>という画家でもあって、ところが実は「注文があれば描きますよ」という無節操なところも持ち合わせていた。ある意味、とっても<日本的>な存在だっただろうか。

 わたし的には、そんな「牛」の絵のいくつかと、阿蘇山を描いた作品、そして最晩年に視力が衰えてから描き始めたという「月」の連作(この連作は、彼がついに「写生」を捨てたという意味でも興味深いのだが)には惹かれた。