ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『PIPILOTTI RIST ピピロッティ・リスト YOUR EYE IS MY ISLAND あなたの眼はわたしの島』@水戸・水戸芸術館現代美術ギャラリー

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 まず先にちょっと、わたしの見た、この展覧会の観客層のことを書いておきたいのだけれども、圧倒的に若い女性の観客が多かった。だいたい70パーセント以上はそういう若い女性観客で、20パーセントぐらいが若い男性観客。こういう現代美術の展覧会にけっこう見受けられる年配の男性、年配の女性の姿が圧倒的に少なかった。わたしなんか会場の中では絶滅危惧の希少種族でしたよ。
 わたしが思うに、たいていの現代美術の展覧会で若い女性客の数が多いことは実感を持って知ることだけれども、この展覧会ほどに圧倒的だったというのは、あまり記憶にはないこと。

 その大きな理由は、やはりこのピピロッティ・リストの作品が圧倒的に女性たちに支持されるようなものであるからだろうと、展示作品を観て思うのだった。ここにあるのはやはり、「女性を主人公として眺められた、この<世界>の姿」ではないかと思う。
 わたしは知らなかったのだが、彼女の「ピピロッティ・リスト」という名は、彼女の幼い頃からの「愛称」で、それは『長靴下のピッピ』から来ているのだという。そして彼女の作品は、そんな彼女の愛称にとてもマッチしているではないのか。

 今回の展示、日記の方にも書いたけれども、大きくはその展示室全体を使ったような3つの映像作品があり、それと多数の「もうひとつ別の世界での生活」を思わせるようなインスタレーション群、そしてそのメインの展示スペースの外で上映されている、彼女の初期の(パンキッシュな)ヴィデオ作品があり、日没後は屋外でもうひとつの映像作品も上映されていたわけだ。
 特に大きな3つの映像作品は展示室に敷かれたカーペット、マットレス、さらにはベッドの上に(もちろん靴を脱いで)横になって作品を鑑賞し、そのうちの1点「4階から穏やかさへ向かって(4th Floor To Mildness)」は、天井に映される映像を仰向けになって鑑賞するのだった。

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 彼女の90年代までの初期の作品には挑発的なところもあるのだけれども、当時のパンク・ミュージック・シーンの影響を受けたような、映像ノイズも取り入れた作品のいくつかは、わたしもとっても気に入ってしまった。
 それ以降の本展示の作品群は、基本は挑発的なものではなく、タイトルにもあったように「穏やかな」世界、特に海だかの水中で撮られたパートが目を惹き、マットレスに横になりながら、まさに「穏やかさ」に包まれるような気分で観た。特に先に書いた「4階から穏やかさに向かって」は、水中に浮かぶ植物、その葉の映像の中で、まるで観ている自分がアメーバとかプランクトンになったような気分になり、わたしの大お気に入りの作品だった。

 あと、これは彼女の代表作ではないかと思われる「永遠は終わった。永遠はあらゆる場所に(Ever Is Over All)」では、画面の左半分で若い女性が微笑みながら、長い茎のついたカラフルな花のつぼみを持って街頭を歩いているのだけれども、車道に停められた車のウィンドウにそのつぼみを打ち下ろすと、ウィンドウはこっぱみじんに割れてしまうのだ。そうやって彼女は次々と車道の車のウィンドウを割って行くのだけれども、後ろからやって来る警官(女性だった)と、互いににっこりとあいさつを交わすのだった。
 画面の右側には、その彼女の振り回していたつぼみが野に咲いているさまが映されていた。
 この作品はある意味「挑発的」なのだけれども、行為する女性の明るい表情もあって、観た印象は実に「爽快」なのだった。YouTubeにこの作品の一部はアップされていたので、ここに貼り付けておきましょう。

 わたしは男性だから深くはわからないのだけれども、作品には「女性の身体性」への問いかけかと思えるところもあり、そういうところが若い女性観客の「共感」を呼ぶのではないかとも思った。
 日没後に屋外で上映されていた「わたしの草地に分け入って(Open My Glade)」なども、わからないけれども、「顔もいつもメイクして美しくしなければならない」という若い女性の「(強制、要請された)生き方」への問いかけではないのかとも思った(この作品は、展覧会ポスターにも使われていた)。

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 ミュージアムショップに行くと、この展覧会の図録はもう売り切れていて、先にこの展覧会のあった京都の近代美術館に注文して下さい、ということだった。
 実はこの図録、4千円するわけで、まあミュージアムショップに置かれていれば買わずにはいられないよな、とは思っていたのだが、「売り切れならばしょうがない」というか、ちょっと財布が助かったと、ホッとしてしまったのだった。

 ちょっとムリをして観に来た展覧会だったけれども、こうやって観ることが出来てよかった、と心から思うのだった。「年配の男性」だからといって、楽しめる展覧会ではあったと思う。わたしはたっぷり楽しんだ。
 

2021-10-14(Thu)

 今日は先日決めたように、水戸の「水戸芸術館」に「ピピロッティ・リスト展(YOUR EYE IS MY ISLAND~あなたの眼はわたしの島)」を観に行くのだ。通勤コースを外れてどこかに「お出かけ」するというのは、わたしにはまさに「非日常」のことであり、そういうのでは、去年の11月に佐倉の国立歴史民俗博物館に『性差(ジェンダー)の日本史』展を観に行って以来のことになるのではないかと思う(3月に両国に『古代エジプト展』にも行ってるけれども、まあ「近場」だったからね)。

 いちおう、どのように行動するか予定を立てたのだけれども、水戸芸術館の展示では日没後に屋外で上映される作品もあるというので、それもぜひ観たい。そうすると、あまり早くに会場に着いて展示を観ても、早くに展示を観終わってしまって時間を持て余してしまう可能性がある。ならば逆算して3時ぐらいに会場に到着すれば充分だろう。ということは、わたしが仕事を終えて水戸に直行すれば到着は2時ぐらい。水戸駅から水戸芸術館までゆっくり歩いて30分として、とちゅうで遅い昼食でもとればちょうどいいのではないかと考える。

 仕事を終えて、水戸に向かう。経路はいつもの帰り道とおなじで、ただ北千住からは快速電車に乗り換える。うちの駅あたりを通り過ぎ、だんだんに駅前にも何もない、田んぼや畑の中を突っ切るだけの、茨城らしい風景になる。けっこう、遠くには山の起伏も見られるのだね。奥に見えるのは筑波山だろうか?

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 予定通りに2時ぐらいに水戸駅に到着。「ようこそ水戸へ」! ここからゆっくりと歩いて、その途中で食事をして行けば、ちょうど3時ぐらいに水戸芸術館に到着することだろう。計画通りだ。

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 歩いていると、ちょっと裏道に老舗っぽいつくりの蕎麦屋がみえた。ここにしよう。
 入ってみるともうランチタイムも過ぎているので、誰も客はいなかった。けっこう広い、大きな店だった。少しぜいたくな気分にひたれる。
 瓶ビールを注文し、それと「天ざるそば」(ほんとうは「カツ丼」にしたかったが、「親子丼」しかなかったので、変更)。外でアルコールを飲み、食事をするというのは、まさに去年11月に佐倉に『性差(ジェンダー)の日本史』展を観に行ったとき以来になる。11ヶ月ぶりの「外飲み」になった。

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 天ぷらは「イカのぶつ切り」をかき揚げ風に天ぷらにした、ちょっとユニークなものだったけれども、わたしはイカが大好きなのでOK。そばも、つゆも美味しかった。そして、外飲みのビールはやっぱり美味しい!

 「水戸芸術館」到着。「そういうこともあるかも」とは思っていたが、もう会期終了にも近づき、観客も多いようで、入場口のあたりで入場制限がかかっていて、10人ぐらいの人が並んでいた。まあ10分も待てば入場出来たのだが。

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 展示は、展示室全体を使ったような大きな映像展示が3ヶ所、それと多数のインスタレーション。そのメインの展示会場の外では、彼女の初期の映像作品が上映されていた。
 その「大きな映像展示」だが、床にカーペットが敷かれ、その上に置かれたマットレス、もしくはベッドに横になって作品を観るのだ。1点はベッドに寝て天井に映された映像を観る。
 そのマットレスとかベッドは、それぞれの上映室でせいぜい10人分用意されているだけで、「これは客があふれたら順番待ちがすっごいことになるな」と想像がついた。じっさい、会期中の土曜日日曜日は予約優先で、この会期さいごの土日はもうすでに予約で埋まっていて、フラッと観に来ても入場できないことになっているのだった。

 ゆっくりと、たいていの映像作品をフルに観て(観忘れた作品もあったかもしれない)時計を見ると5時を過ぎていて、先に得た情報では、このぐらいの時間から屋外でヴィデオ作品の上映があるはず。場所がわからず、会場内の受付係員の方にお聞きして、無事に観ることが出来た。全体にわたしは複数回会場内で経路を見失い、係員の方の助けで完走することが出来た。
 会場係員の方々に感謝する気もちも大きいけれども、これが<緊急事態宣言>が今もなお継続されていたとしたら、そんな係員の方々の気苦労ははるかに大きなものだったことだろうと思う。今でもなお、そんな厳密な<感染防止策>を施されてのこの展覧会の開催、こうやって鑑賞できたことに、関係者の方々の苦労にやはり重ねて感謝するしかない。

 屋外の作品を観ていると5時半をちょっと過ぎていて、先に調べていた時刻表では6時に水戸駅を出ると、7時半ぐらいには地元に帰れそうなので、ちょっと早足で駅へと向かう。
 無事にその6時の電車に乗り、いつもの感覚でいうと「ひと駅乗り越した駅」で下車し(いつもの自宅駅は快速電車は停まらないので、どっちにせよ乗り換えしなければならない)、帰り道にスーパーに立ち寄って「お弁当」でも買って帰ろうという計画。

 時間も8時に近いので、生鮮食料品は大幅に値引きされていて、お弁当などは半額。もうみんな売り切れてしまってがらんとした売り場も目立つ。わたしは「あさり炊き込みご飯弁当」を買い、留守番をしてくれたニェネントくんに、好物のサーモン刺身を買って帰るのだった。

 わたしがいつものように朝も暗いうちから家を出て、それがそのまま日が暮れて暗くなるまで帰って来ないというのも実に久しぶりのことで、ニェネントくんのいつもの食事の時間もとっくに過ぎているし、ニェネントくんも待ちくたびれてご立腹のことではないかと思ったが、さすがにドアの鍵を開けてドアを開けると、三和土のところまで「お出迎え」してくれていたのだった。
 特にニャンニャンとないて怒っている様子でもなかったので安心し、買って来たサーモンに「ちゅーる」でトッピングし、「今日は特別よ!」という、遅い食事を出してあげた。ニェネントくんがっつく。わたしは「あさり炊き込みご飯弁当」をレンジでチンして食べ、「お疲れさま」の一日が終わった。って、明日は明日でまた、国分寺のクリニックへと「遠出」するのだけれども。
 

2021-10-13(Wed)

 ずっと、弱い雨が降ったりやんだりの日になった。今日は仕事のあとは歯科医で歯の治療。これからしばらくは左側の歯の治療がつづくらしい。

 仕事の帰り、ウチから近い公園の前に、次の衆議院選挙のポスターを貼るためのベニヤ掲示板が、もう立てられていた。って、先日岸田総理が決まり、その内閣の陣容も見えるようになったばかりだというに、ここで議会は解散して選挙っていうのは、わたしにはわからない。「まだ何もやっていない」内閣の、何を評価して投票を決めろというのだろうか。これは「期待しますか、どうですか」という「期待値」での投票なのか、それともその前のスカ内閣の実績に対しての考えで投票して下さいということなのか(わたしはコレを考えて投票するが)。
 もしも仮に月末の選挙で立憲民主党とかが過半数を取って政権奪取した場合、今の「岸田内閣」は、ただ組閣しただけで、な~んにもやらないままに姿を消してしまうのだろうかね。そういうのは面白そうだ。実現してほしいな。

 ニュースをみていると、先日「都道府県魅力度ランキング」というのが発表され、このランキングは毎年ニュースネタになっているのだけれども、去年はず~~~っと47位(つまり日本最下位)から脱していた茨城県が、今年はふたたび47位の定位置に復帰したということ。
 わたしも4年ぐらい前までは長年茨城県で生活して、それは茨城県の中にもいろんなところがあるだろうけれども、「けっこう暮らしやすい、いい所だなあ」とは思っていたな。
 たしかに「関東鉄道常総線」とか「つくばエクスプレス」とかにたまに乗ると、地平線どこまでもまっ平らで(まあ遠くには筑波山とかも見えたが)、畑・水田がずっとつづいてな~んにもない。まあそれは、「魅力がない」といわれれば「それはそうかな」とも思うのだが、それまで山に登ったことなどまるでなかったわたしが、「せっかく茨城県に住んでいるのだから、筑波山にも登ってみようか?」と出かけ、まあ頃合いのいい疲労感と努力をともなって筑波山のてっぺんまで登り、「これはいいではないですか」という景観を楽しめたのは<いい思い出>になったなあ。
 はっきり言っていまのところ、今住んでいる千葉県よりも茨城県の方が魅力はあったような気がする(まああちこちのスポットを渡り歩いて言うことではないのだが)。

 そうすると今日、そのランキングで44位になったという群馬県山本一太知事が「不快感」をあらわにし、ランキングの根拠がわからないとして、「法的処置を含めて検討する」としたらしい。
 ‥‥ま、もうちょっと県知事としてはやることもあるように思うのだけれども、「最下位定位置」のその茨城県知事は「痛くもかゆくもない」と語ったというし、意外と45位だった埼玉県の県幹部は「ディスられ慣れてるし」と、こちらも問題にしていないようだ。そもそも公的な権威ある順位付けでもあるまいし(いや、「公的」にこ~んなことやるわけもない)、「遊び」でしょう、これは(まあ「遊び」だろうが、その順位付けの根拠を示せ!という人はいるのだろうが)。
 では、わたしの住むこの千葉県は「どうなのよ?」とみると、な~んと、12位なのだという。‥‥むむむ、わかんないなあ。たしかに千葉にはTDLとかあるし、房総の海もあるしなあ。ま、どちらにせよ、「ど~でもいいこと」ではある。
 って、わたしは明日、その「魅力度日本最下位」の茨城県、水戸へ行くつもりなのだけれども。あらためて、どんだけ魅力がないのか見て来よう。

 夜、わたしももう寝ていて、ふと目を覚まして横を見ると、キャットタワーの上でニェネントくんがわたしを見ているのだった。「あんたは寝ないのかよ!」とも思うが、ネコ類は夜行性なのだ。手元にあったスマホで写真撮ったけれども、けっこう愛らしい顔をしているではないかと思ってしまった。実はかわいいニェネントくん(いや、いつもかわいいとは思っていますが)。

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『ゼイリブ』(1988) ジョン・カーペンター:脚本・監督

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 ‥‥やっぱりまずは、この作品に関しては、例えば蓮實重彦氏の定義した「B級映画」ということをそのままに、とにかくはインパクトの強い映画を撮られたということに感銘するしかない。

 ほとんど「ディストピア映画」として、現代(この作品が撮られたのは1988年)の眼に見える世界の裏側に「陰謀」が進行しているのだと描いた姿勢には感銘する。言っておくが、今の世界にはびこる「陰謀論」と、この映画とはこれっぽっちも関係はない。

 世の中は貧富の差が拡がり不況も激しくなっていて、主人公は職を求めてどこかの都市にやって来て、肉体労働の職を得る。その宿舎(キャンプ)に行ったとき、彼はテレビジャックなどでレジスタンス運動を行う組織に出会う。そんなとき、組織は警官隊の襲撃を受けてたいていは逮捕されてしまうのだが、主人公は彼らのアジトでたくさんのサングラスを見つける。
 主人公がそのサングラスをかけて街に出てみると、テレビ画面の文字、雑誌・書籍の表紙、そして広告の看板などにはみ~んな「従え」とか「考えるな」「消費しろ」などという、隠されたメッセージ(命令)が読めるのだった。そして、街を歩く裕福そうな人たちの顔は「人間」ではなく、髑髏のような存在なのだった。つまり彼らは地球を侵略するエイリアンの「擬態」した姿で、エイリアンらは地球を支配しようとしているのだった。
 主人公は仲間をつくって、レジスタンス運動する人らと合流、エイリアンらに叛逆するのであった。エイリアンらはすでにこの地球に「地下都市」をも建設しているのだった。

 主人公を演じたロディ・パイパーという人物は現役のプロレスラーだったそうで、そのことでこの作品が観念的なドラマというよりは肉弾戦満載のアクション映画的側面が強く、一面で「観て楽しめる」娯楽作品的な仕上がりにもなっている。

 そして、このエイリアンらがやっていた「無意識下でのマインド・コントロール」というものは特に絵空事ではなく、この時代から「広告」などを利用した人心コントロールというのはたしかに語られていたわけだろう。
 ちょうどつい先日、JRの品川駅の広告用デジタル・ディスプレイにいっせいに「今日の仕事は、楽しみですか」という、白地に黒ゴシック体の文字広告が表示され、通勤途中にそれを見た人が「不愉快」と苦情を訴え、その広告はその日のうちに打ち切られたという。

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 これは広告主がどのような意図を持っていたのかは知らないが、どう読んでも「上から目線」の文章は、背後に「あんたらが今日の仕事が楽しみだろうともつらかろうとも、働くしかないんだよ!」というメッセージしか読み取れず、まさに『一九八四年』的というか、この『ゼイリブ』的なディストピア世界をあらわしているだろう。この一歩先には「考えるな」「消費しろ」というメッセージがあるわけで、実は2021年のこの世界が、「新自由主義」的な路線をすすめようとする支配者層による『ゼイリブ』の世界なのだということだろう。まだわたしたちは、このような反動メッセージに「ノン!」を突き付け、撤回させるパワーは持っているようだ。このパワーを失ってはいけない。

 というわけでこのジョン・カーペンターの映画、単なる「風刺」を超えて、特権階級がじっさいには何を欲しているのかということもあらわにし、「ディストピア映画」の秀作には仕上がっていると思った。
 

2021-10-12(Tue)

 予報では、今日の午後から雨になるのではないかと言っている。もう、ずっと長いこと、毎週一度は雨が降るという天候がつづいている。「どうなのよ」と思って長期予報(コレはアテにならないのだが)をみると、やはり来週にも雨が降るということだった。

 早朝に駅への道を歩いていると、わたしの前を灰色のネコが道を横切って行った。この道でネコに出会ったことはないのだけれども、暗闇で街灯に照らされた道の隅で、ネコがうずくまっているのが見えた。そのネコの啼き声も聞こえてきて、近くに寄ってみたけれども、金網フェンスの向こう側に逃げて行ってしまった。
 この道は食べ物を得るにはキツいスポットだとは思うけれども、普段人の行き来もない道筋だから人に追われることもなく、食べ物以外の問題ならば生活して行きやすいスポットではないかと思う。

 この日は、昨日まで読んでいた本も読み終えたので、あたらしく「この本を読もう」というのを準備していたのだけれども、朝家を出るときに、その本をバッグにしまい忘れて家を出てしまった。
 電車に乗ってから本を忘れてきたのがわかったが、こういうのを何というのだったっけ、「電車の中で読む本がないと発狂する病気」。久しぶりにコイツに見舞われてしまい、しょうがないからスマホを見たり、寝たふりをして何とかやり過ごした。
 仕事の休憩時間は、しょうがないからスマホをずっとみていたが、なんだかTwitterをやめて以来、PCとかスマホとかそんなに興味がなくなってしまったか。

 仕事を終えての帰り、今日は「野良ネコ通り」を抜けて行く。最近「ハナクロ」や「ヒゲ殿下」をよく見かける駐車場の車の上に、今日は「ヒゲ殿下」が休んでおられた。わたしがカメラを向けると、それまで向こうを向いて寝転がっていた「殿下」は身を起こし、わたしの方を向いて下さった。
 う~ん、何とも「穏和」なお顔ですね。「殿下」のネーミングにふさわしいというか。

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 写真を撮らせてもらって、殿下に向けて「バイバイ、またね!」と手を振ってその場を離れようとしたけれども、そのとき、その車の停まった駐車場の奥のお家の窓の奥で、年配の女性の方がわたしに手を振ってくれているのが見えた。わたしが「ヒゲ殿下」に手を振っているところを見られたのだろう。わたしはもうそこから離れて歩きはじめていたので、あいさつをし返すことも出来なかったけれども、すごくうれしかったです。「ヒゲ殿下」のこと、よろしくお願いいたします!

 そのあとの帰り道は少しずつ雨が降り始め、けっきょくはウチに帰るまでには傘をささなければならなかった。めずらしく天気予報が的中しただろうか。

 この日は職場から帰路に着くとき、駅のそばの商業ビルの中の(ちょっとリッチな)スーパーの中を見て歩いて、そんなに高くなかった「海鮮天ぷら盛り」を買って帰っていて、自分的にはまたコレで「とろろそば」プラス「海鮮天ぷら」という昼食にしようかと考えていたのだけれども、帰宅してからは「そば」をゆでるのが面倒くさくなり、「海鮮天ぷら」だけでいいや、と、シンプルな昼食にした。
 ‥‥う~ん、やっぱり「リッチ」な店のお惣菜はそれなりに「美味」で、とっても満足した。これからもときどき、こうやって勤務先そばのスーパーで惣菜を買って帰って「昼食」とかにするのもいいな、などとは思うのだった。

 食事のあと、「GYAO!」でジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』を観た。ディストピアものとして、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』的でもあり、先日観た黒沢清監督の『散歩する侵略者』的でもあり、面白いというか楽しいというか、そういう映画だった。
 

『孤独の街角』パトリシア・ハイスミス:著 榊優子:訳

 わたしはよく知らないけれども、一時期ミステリーの世界で「イヤミス」などという言葉が席巻し、それはつまり「読んでいや~な感じになるミステリー」ということらしく、それは国内ミステリー作家らについて言われていたらしいけれども、その海外作家の代表として、このパトリシア・ハイスミス、そしてシャーリイ・ジャクスンらが挙げられていた記憶はある。まあそのおかげでシャーリイ・ジャクスンなんかはちょびっと脚光を浴びて、昔の著作が再版されたようだったけれども、パトリシア・ハイスミスに関してはどうだっただろうか?
 だいたい、パトリシア・ハイスミスの作品っていうのは、けっこう半数ぐらいが「扶桑社ミステリー文庫」から邦訳が出ていたのだけれども、もう今はぜ~んぶ絶版。つまりはパトリシア・ハイスミスなど、もう誰も注目していないというところだろうか。

 ハイスミスといえば、あのアラン・ドロンの主演した『太陽がいっぱい』だとか、ヒッチコックが映画化した『見知らぬ乗客』の原作者として知られていると思うけれども、これらの作品は特に「いや~な感じがする」わけでもなく、卓越したプロットによる「完全犯罪計画」サスペンスとして読まれることだろう。
 じゃあなんで彼女が一時期は「イヤミスの女王」などと呼ばれることになったかというと、たしかに、性根腐った「悪人」が犯罪を犯すというのではなく、逆に「この人、善人じゃん」とか、「ただちょっと気が弱かっただけじゃん」みたいな人が犯罪に巻き込まれてしまい、みじめに死んでしまうような作品もあったせいだろうかな。それと、犯罪者の心理をあれこれ解明し、犯罪者の中の、いや、人間存在そのものの「弱さ」を描いたせいでもあるのだろうか、とも思う。そして、彼女の作品の登場人物がつく「嘘」というポイントもあるのか。そういう彼女の作品が「イヤミス」と認識されたということだっただろうか。
 しかし、そんな「イヤミスの女王」とか言われていた時期、ハイスミスのそんな「いやな感じの」作品は、だいたいみ~んな絶版になっていたんだからしょうがない。

 前置きが長くなってしまったけれども、この『孤独の街角』もまた、今は「絶版」である。原題は「Found in the Street」で、1986年の作品。彼女の晩年の作品ではある。
 それで、わたしが読んだ第一印象を先に書けば、「コレって、ミステリーでもサスペンスでもないじゃん!」ということになる。いちおう、ある女性が殺害されるのだけれども、そこまでに「犯人は誰よ?」ということではないし、犯罪自体がテーマかというと、そういうことでもない。特にこの作品の前半はニューヨークに住むちょっとアッパーミドルの家族の、その旦那の視点からの生活の様子が事細かに描かれつづけて、いささか「なんやねん?」という印象は受ける。
 作品は、そのアッパーミドルの「駆け出しの挿画家」のジャックという男からの視点と(ジャックには6歳ぐらいの娘もいるが、画廊に勤める妻のナタリアは同性愛者でもあり、実に奔放な生活をしているというあたり、ちょっと「普通ではない」家族関係だろうか?)、それともうひとり、一人暮らしで守衛をやっているラルフという男(過去に離婚していて、その元妻への憎悪感はけっこう激しい)からの視点、この二つから成り立っている。

 ジャックが落とした財布をラルフが拾ってジャックのもとに届けたことから、この二人は知り合うのだけれども、ジャックはある夜にふと立ち寄ったカフェで、そこの若いウェイトレスのエルジーが、しょっちゅう店に来るラルフにいささか迷惑していることを聞く。それは歪んだ「善意」と「正義感」からのモノで、エルジーがこのニューヨークの街で「堕落」してしまうことを心配し、ほとんどストーカー的にカフェを訪れてはエルジーに説教をたれているのだ。こういうのは「普遍的」なことというか、今でもこういう、相手のことを心配しているようで実は「ストーカー」という輩は世の中にいることだろう。
 ジャックはジャックでまた、そのエルジーが実に魅力的であることに心打たれ、彼女のことが忘れられなくなる。ジャックはエルジーという少女のことを妻のナタリアにも話し、ナタリアもまたエルジーに会ってその魅力にうたれ、ついには自分の人脈からエルジーを「ファッションモデル」への道に誘う。ジャックはエルジーの絵を描き、会ううちに彼女に「愛してるよ」とかのたまうし、実はエルジー自身も同性愛者だったわけで、エルジーとジャックの妻のナタリアは関係を持ってしまうようだった。
 街角でジャックとエルジーとが一緒にいるのを見たラルフは、「ジャックこそがエルジーを堕落させている野郎だ」と思い込む。そんなとき、ファッションモデルへの道を順調に上りつつあったエルジーは、自宅アパートの前で殴り殺されてしまうのであった。その知らせを聞いたラルフは、「ジャックこそがエルジーを殺した犯人だ」と思い込む。実はエルジーを殺したのは、エルジーの古い知り合いの同性愛者の女性だったのだが。

 ‥‥ま、ラルフはラルフで「愚か」なわけだけれども、一方のジャックもまた、「何やってるんやねん」という愚かさはある。二人とも、エルジーという若い女性の中に自分の「幻想」を投影しているようだ。この二人はエルジーの死後に鉢合わせして、壮大な「殴り合い」をやらかすわけだけれども、それまではラルフのことを「歪んだ人格」と思っていたジャックは、そのあとに「あの男(ラルフ)もやるじゃないか」とかちょびっと認めてしまったりするし、それはラルフの方でも同じようだ。お互いが抱いていた「幻影」を認めたということなのか。

 この作品で主に書かれるのがジャックの一家の「アッパーミドル」な生活ぶりでもあり、この時代のニューヨークの街の「バブリー」な空気感がよくわかるし、ハイスミスの描写から、ジャックの「軽薄さ」というか、奥さんのナタリアからみた、旦那であるジャックの「安全さ」みたいなモノもみえてくるだろうか。
 もう一方のラルフだって、そこまでに貧困な生活ではないのだが、読んでいるとこの人物の「倫理観」「正義感」というものも、けっきょくはエルジーという若い女性に「眼が眩んで」のことであり、それはジャックだっておんなじなのだろう。お互いにラストには「あいつだってなかなかのものさ」となるのもコミカルではあるけれども、ハイスミスの「リッチだろうがプアだろうが、考えは同じよ」みたいな視線も感じさせられ、やっぱり「ハイスミスの視線」に魅了される作品ではあった、と思う。
 

2021-10-11(Mon)

 十月も中旬になったけれども、まだけっこう気温の高い日がつづく。この日は仕事でとつぜんに、わたしと同じ時間帯で働く相棒が「体調不良」ということで休んでしまい、いろいろと「すったもんだ」の仕事になった。まあわたしも金曜日に大幅な遅刻をやらかしていることだから、職場としては連続して「どうなってるの?」という感じになってしまったことだろうか。

 なんとか仕事を終え、この日は月曜日だから「ふるさと公園」経由の道でウチに帰る。公園の池ではまず、つがいのカモに出会った。やはり十月になるとそろそろ、いろんな水鳥がやって来るようになる。

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 そしてそんなカモの近くには、何匹ものカメが「甲羅干し」しているのだった。「カモ」と「カメ」とが並ぶと「語呂合わせ」っぽいが、じっさいに同じ池のすぐとなりにいるのだからしょうがない。

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 しかし、この写真に撮った3匹以外にも、この池にはたくさんのカメがいるのを確認できた。この写真でいちばん高いところによじ登っているカメを見ても、こいつらは今は悪名高い「アカミミガメ」ではあるだろう。そもそもは祭りの屋台などで「ミドリガメ」として売られていたものが、その長寿もあって(寿命は30年はあるのだ)飼いきれずにそのあたりの川だとか池だとかに遺棄されたものが、すっかりその環境に同化して子孫まで残すようになっているのだ。
 この「ふるさと公園」では、増えすぎる「コブハクチョウ」のことも問題視されているけれども、こいつら、増えすぎている「アカミミガメ」の方が深刻なんじゃないだろうか。彼らは水草を食べ尽くし、生態系を狂わせてしまうのだ(じっさい、Wikipediaによると、「ハスの群生の消滅」との関連が取りざたされているようだ)。ま、わたしもカメちゃんにはそんなに愛着も感じないかな。

 この日公園にいたコブハクチョウは1羽だけ。クチバシの上のコブがいまいち小さいし、このコはたぶん「子ども」ハクチョウではあることだろう。

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 帰り道、すでに刈り入れの終わった田んぼと畑とのあいだの道を行くと、前に見た柿の木の柿の実がさらに色づき、まさに「秋らしい」点景が見られるようになった。

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 ウチに帰ると、テレビでは衆議院での「代表質問」の中継をやっていたけれども、まあ岸田新首相は前のスカみたいなアホではないようだし、安倍のようなシャーシャーとうそをつくような人物でもないようだけれども、そつのない、突っ込みようのない答弁というか、聞いていても「それでじっさいにはどうやるのよ?」ということでしかないと思った。

 今日は、通勤電車とかで読んでいたパトリシア・ハイスミスの『孤独の街角』を読み終えた。ハイスミスの作品としてはちょびっと「異色」というか、そこまでに絶望的な気分を醸し出す作品ではなかった。一種、「現代のカリカチュア」的なところの読み取れる作品かと思ったが。
 さて、明日からは何を読もうかな?