ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『デス・プルーフ in グラインドハウス』(2007) クエンティン・タランティーノ:脚本・監督

 こないだ観た『プラネット・テラー in グラインドハウス』とこの作品との2本で連作「グラインドハウス」を構成。『プラネット・テラー in グラインドハウス』の方はかなり徹底した「B級映画」テイストの作品だったけれども、こっちはタランティーノが「そ~んなにしゃかりきにならないで」自分の撮りたい映画を撮った、という印象の作品で、そういう意味ではかなり「趣味的な」作品かと思う。けっきょくは70年代とかの「カー・アクション映画」へのオマージュらしいのだけれども、わたしはそのあたりの映画にまったく不案内なので、何とも語ることもない。

 つまりけっきょくこの作品、ストーリー展開がどうのこういのとかいうのではなく、女性たちのしょーもないトークが延々とつづくのである。そこにカート・ラッセルの演じる「スタントマン・マイク」というのが近づいてきて、彼の乗る「デス・プルーフ仕様」の車でもって女性たちを襲うと。

 前半、後半の二部に分かれていて、前半ではスタントマン・マイクがガッチリと女の子たちを死に至らしめてしまうのだけれども、自分もひん死の重傷を負うわけで、「そこまでしてやって、何が面白いんだろう?」みたいな感覚にはなるけれども、「死を賭けてこその極上の<快楽>」を求める男なのだろう。
 それで後半は14ヶ月後、傷も癒えたスタントマン・マイクは「次の獲物」を狙うのである。場所を変えて同じような展開になりそうなんだけれども、今回の女の子たちはなんと、映画の裏方の女性たちで、中にはふたりの<スタント・ウーマン>もいるのだった。スタントマン・マイクの追突、幅寄せなどの攻撃を何とかしのいで、逆に女性たちの復讐にはなってしまうという話。カート・ラッセルが女性たちにボコボコにのされるというラストは、喝采モノ。
 この後半に登場する「ゾーイ」という女性はじっさいに<スタント・ウーマン>として活躍される人らしく、彼女が実名で出演してることからも、この作品は彼女に捧げられた作品ともいえるだろう。

 そういうわけで「後半」はけっこうずっと「カー・アクション」の連続なのだけれども、「前半」では、女性たちがバーでジュークボックスからの音楽をとっかえひっかえ皆で聴くシーンがつづき、ここでのタランティーノの「彼らしい」選曲がひとつ、まさに「タランティーノ映画」だねえというところでもある。

 わたしがいちばん気に入った選曲は、女性たちがスタントマン・マイクにやられちゃう前にクルマの中で聴いていたDave Dee,Dozy,Beaky,Mick & Tichの「Hold Tight」という曲。ここで女の子たちは「もしもThe WhoのPete TownshendがThe Whoを脱退してこのグループに加入したならば、グループ名は"Dave Dee,Dozy,Beaky,Mick,Tich & Pete"になるんだよ!」などと、実に下らない話をしているのだが、実はわたしはこの曲が大好きだったのだ。この曲は日本ではシングル盤ではリリースされてないのだけれども、わたしは当時持っていたイギリス系ビート・グループの、シングル盤でリリースされなかった曲を集めたオムニバス・アルバムでこの曲を聴いていたのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=J5RiPbBgO6g

 この曲はアメリカでもまるっきしヒットなどしてないはずなのだが、こういう曲を選ぶのが、わたしがタランティーノを好きなところだ。Dave Dee,Dozy,Beaky,Mick & Tichは、この曲のあとも同じようなたたみかけるビートの「Bend It」という曲をイギリスでけっこうヒットさせたのだけれども、この曲もアメリカでも日本でも無視された。アメリカ、日本で彼らが残した唯一のヒット曲は「キサナドゥーの伝説」という曲だけれども、わたしはこの曲はそれほど好きではなかったな。
 しつっこいけれどももう少し書いておくと、日本で「キサナドゥーの伝説」がシングル盤でリリースされたとき、グループ名が「ディヴ・ディー、ドジー、ビーキー、ミック&ティッチ」では長すぎるというので、勝手に「ディヴ・ディー・グループ」ということにされてしまったのだった。
 

2021-07-19(Mon)

 7月19日。本来だったら今日は「海の日」ということで「祝日」だったわけなのに、「オリンピックやるから」と勝手に「祝日」を移動されてしまい、この日は「平日」、出勤する日になってしまった。
 ウチのカレンダーを見ても今日は赤い数字になっているのだが、いちばんの問題は、わたしのスマホにセットしてあるアラームが、ひょっとしたら「土・日・祭日以外」というセッティングになっている可能性で、そうだったら「起きなくてはならない時間にアラームが鳴らない」ということになってしまうではないか。
 「ヤバい!」と思って昨夜チェックしてみたのだけれども、いちおうわたしは、月曜から金曜まで祝祭日にかかわらずアラームが鳴るようにセットしてあるのだった。おそらく「祝祭日」はアラームをオフにするセッティングができなかったのだろうけれども、「ひと安心」なのであった。「よかったね」などと言ってはいられないが。

 とにかく今のわたしはいつも、そんなアラームが鳴る前にとっくに目覚めているわけで、アラームのお世話になって「おお!もう起きなくっちゃ」となるのは一ヶ月に一度もない。ただアラームは「安全弁」なのだけれども。
 ベッドを出て、「まあ今週は3日がんばれば、そのあと4連休になるからな」という気分で支度をして家を出る。
 駅のそばで東の空を振り返ってみれば、ほら、もう今では太陽の昇ってくる姿は見られなくなっているのだった。

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 昼間は陽射しが強くてかったるい。帰宅して、実は昨日買った「ウィンナーポテト」も「イカの唐揚げ」もけっこう残っているわけで、インスタントのパンプキン・スープをつくり、食パンをトーストしていっしょに昼食にした。
 ところがこれでは食べきれなくってけっこう残ってしまい、けっきょく夕食もまた昼食とおんなじことになってしまった(くやしいことに、けっこうおいしかったのだが)。
 ニェネントくんの夕食もまた、昨日の残りの刺身になってしまい、ニェネントくんはお皿に頭を突っ込みながらもわたしの方を振り向き、「ねえねえ、なんか鮮度が落ちてるんだけれども、これって<昨日の残り>なんじゃないの?」みたいな視線なのではあった(まあけっきょく全部食べてはくれたけれども、ニェネントはごまかせないな)。
 けっきょく昨日は「ごちそう」にするんだ、という気分でいつもは買わないものも買ったのだけれども、何ていうことはない、今日はぜ~んぶ昨日のお余りで(わたしもニェネントくんも)食事をすませてしまい、つまりはいつもの「貧乏くさい」食卓になるのではあった。

 今日は「GYAO!」で、先日の『プラネット・テラー in グラインドハウス』につづいて、『デス・プルーフ in グラインドハウス』を観たのだった。

 夕方になって、昨日も書いた<東京オリパラ>の開閉会式の音楽を担当した小山田圭吾氏が辞任したのだ、という報道を読んだ。
 もう書くまでもないが、ここまでグダグダになってしまった<東京オリパラ>、「どうなってるんだろうね」というところではある。
 小山田圭吾氏も「愚か」だったというか、その過去の対談での発言は今までにも問題にされたことはあったわけで、そういう機会に「自分はぜったいに語ってはいけない自分の過去の愚行(ほとんど犯罪行為)を語ってしまったわけで、これはウヤムヤにできることではないな」という認識がなければおかしいと思うのだが、それをよりによって「障がい者」の大会でもある「東京パラリンピック」に絡むセレモニーの音楽を担当するとなったとき、「隠し通せることではないだろう」と思わなかったのだろうか。
 だから依頼を受けたとき、「いや、わたしはちょっと‥‥」と断っておれば、これからも今までと同じスケールでの活動は継続できたはずなのに、こうやって彼の過去をもう誰もが知ることになってしまったあと、もう今までの活動さえ継続が困難になってしまったのではないのか。
 すべては、彼の「反省」の薄さによるものだろう。

 そして、各新聞社などの「内閣支持率」調査で、スカ内閣の支持率は軒並み30パーセント前後に落ち込んだという。ところが当のスカ首相本人は、今になっても「ワクチン万能脳」に侵されたままで、「そのうちにワクチン接種率がもっと上がれば支持率も上がるだろう」という考えらしい。それはつまり「オレは何もやらないね!」というワクチン接種にすべてを預ける「無責任」であり、今ワクチン接種の予約がまったく滞っていることに皆が「不満・不安」を持っていることを無視している。そして彼はいまだに<東京オリパラ>を「安心・安全」の大会と繰り返すだけで、何らの対策も講じようとしていない。
 昨日の迎賓館でのバッハIOC会長を招いての晩餐会でもまた、スカ首相は1964年の東京オリンピックの思い出を語ったらしい。「国民相手」に同じことを繰り返すだけでなく、そういう内輪のパーティーでもまた、同じことを繰り返すばかりなのだ。そもそのもキャパシティーの狭さ、ボキャブラリーの貧弱さは覆うべくもない。この人をみていると、動物園のナマケモノだってもうちょっと頭脳を駆使して生きているのではないだろうかと思ってしまう。
 

2021-07-18(Sun)

 今朝、昨日の夢とほとんど同じ夢をみた。あまり鮮明に記憶しているわけではないけれども、「昨日の夢のつづき」というのでもなく、「昨日の夢のヴァリエーション」というような夢だったと思う。わたしはぼんやりと目覚め、「昨日みた夢みたいなのをまたみているなあ」と思っていたのだがまた寝てしまい、またその夢のつづきというか、同じような夢を引きつづいてみているのだった。

 梅雨が明けて以来空はまぶしい青色で、もう部屋にいてもエアコンが欠かせなくなった。それはもう7月ももうじき下旬で「夏真っ盛り」、学校だって昨日から「夏休み」に突入しているのだ。
 ニェネントくんはこのところ、たいていの時間は和室の押入れの中に「避難」しているようだ。わたしが「涼みたいんだったらこの押入れの中がいちばんだよ!」と、ニェネントくん用にふすまをちょっと開けておいたのだ。でも、じっさいにニェネントくんが押入れの中に引きこもっていると、ふだんニェネントくんの姿をみられないのでつまらないのだが。

 今日はついに「ごちそうを食べるぞ!」という気分で、ニェネントくんにも「おすそ分け」してあげようと、早い時間に東のスーパーへお出かけして「刺身の盛り合わせ」と「海鮮丼」、それから「イカの唐揚げ」「ウィンナーポテト」などなど買って来た。
 東のスーパーまで出かけるのは久しぶりになったけれども、その途中の道に以前はアジサイの花がいっぱい咲いていたものだけれども、今はまるで咲いている花を見かけられなくなっていた。大きな桜の木の根元にシダ類らしい植物が伸びていたので、花の代わりにそのシダを撮影した。シダの葉にはなぜか、「南国」という雰囲気があると思う。

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 帰宅してまずは昼食。まだ「焼きそば麺」があと一食分残っていたので、コレをなんとかしようと。先日の「たらこふりかけ」をかければ、お手軽に「たらこ焼きそば」になるのではないか?とトライしてみる。
 ‥‥うん、たしかに「お手軽」にできるわけで、味もそこまで悪くもない。ただ、これならば先日の「たらこスパゲッティ」の方に分があるだろう。結果として「ごはんにたらこふりかけ」>「たらこスパゲッティ」>「たらこ焼きそば」、というところだろうか。

 買って来た「刺身の盛り合わせ」をよく見ると、三分の二ぐらいは「かつおのたたき」で、あとは申し訳程度にイカの刺身と赤身とが乗っているだけで、「これは価格に比べてボラれたなあ」という気がした。「海鮮丼」も、このスーパーには珍しくまったくおいしくなかったし、「イカの唐揚げ」「ウィンナーポテト」は量が多すぎて食べ切れない。今日の買い物は失敗だった(思いがけず、いっぱい刺身をゲットしたニェネントくんは大喜びだったみたい)。

 <東京オリパラ>関連で、もう次の金曜日に予定されているオリンピック開会式などで、かつて<渋谷系>などと言われた某ミュージシャンが音楽を担当することがわかったのだけれども、そのミュージシャンが90年代に複数のサブカル系の雑誌の対談で、かつて相当に悪辣な「いじめ」に加担していたことを自ら自慢げにしゃべっていて、そのことが今めっちゃ問題視されている。たちが悪いのはその被害者が「障がい者」だったということで、そのミュージシャンは自ら手を下したのではなく、「こんなことやってやったら」とかアイディアを出し、そばで見ていたのだという。だとしても、これはもう「犯罪」なわけだ。

 この某ミュージシャンとは今はもう誰もが知っている「小山田圭吾」のことで、まあわたしは彼のやっていた「フリッパーズ・ギター」とか「Cornelius」とか、名まえは聞いていたけれどもマジメに聴いたことはなかった。だいたい<渋谷系>とか言われても興味はなかったが、ただPIZZICATO FIVEだけは好きだったな。
 その小山田圭吾の対談を掲載した雑誌とは「Rockin' On Japan」と「Quick Japan」ということだが、「Rockin' On Japan」のことは知らないが(雑誌の名は知っていたが、1ページたりとめくってみたこともない)、「Quick Japan」の方はもともと太田出版の出すサブカル誌だったわけで、どうも太田出版の関係からも、「鬼畜系」という言葉を思い出してしまう。おそらくその対談、そんな「鬼畜系」へのサブカル的な興味から企画されたというか、そんな時代的な空気と出版社の(無言の)要請の中で小山田圭吾はまさに「不用意」な発言をやらかしてしまったのだろうかと思う。「不用意」すぎた。
 そういう意味で、当時イヴェントをディレクションしていたわたしの周囲にも、そういう「鬼畜系」と呼ばれるアーティストがいなかったわけでもない。しかし、わたしの周囲にいたアーティストらはもちろん「いじめの加害者」的な意味での「鬼畜系」ではなく、逆に「被害者」的な立ち位置のアーティストだった。

 ここで、もちろん小山田圭吾の過去の発言は、いくら過去のものだったといっても許されるものではなく、そのときの空気で調子に乗ってベラベラとしゃべってしまったとして、そのことは彼はもう「一生」背負って行かなければならないのだ。今までのキャリアをすべて失っても当然、ぐらいの問題だと思う。もう古い記事なわけで、今までにも幾度か問題にされてはいたらしいが、今回の件でもう全国的に(海外にまで)彼の過去は知られてしまったわけで、もう誰も忘れないだろう。
 また、これらのことを調査できずに今回の<東京オリパラ>に作曲を依頼してしまった「組織委員会」だかの「調査機能」もまた、問題にされることだろう。

 ただ、わたしが危惧するのは、この問題からまた「鬼畜系」という過去のジャンル分けに火が付き、深い考えもなしに「鬼畜系」排斥みたいな動きになってしまうことだ。
 今、ちょっとインターネットでそんな「鬼畜系」について検索してみたのだけれども、どうも「加害者」としての「鬼畜系」と、「被害者」(という言い方が正しいかどうかわからないが)としての「鬼畜系」とがごっちゃに記載されていると思った。そんな中にわたしも個人的に存じ上げている出版社/ギャラリーの名も出てきたし、わたしの知るアーティストの名も出てくるのだった。
 まあ今はそういうことにもなっていないようだし、これはすべてわたしの危惧に終わればいいのだけれども。
 

『プラネット・テラー in グラインドハウス』(2007) ロバート・ロドリゲス:脚本・監督

 「グラインドハウス」っていうのは、かつてB級映画を2本とか3本立てで上映していたアメリカの映画館のことだというが、わたしのガキの頃には東京の下町(ウチから歩いて行けるぐらい近く)にも、こういう「2本立て、3本立て」ばかりやっている場末のきったない映画館があったものだ(客席にもトイレの匂いが強烈に立ち込めていた)。上映していたのはそこまで評判にならなかった邦画中心で、まさに「B級映画」上映館というところだったけれども、そのうちに「日活ロマンポルノ」とかの「18禁」映画中心の上映になってしまった感がある。そうか、あの映画館は「日本版グラインドハウス」だったのか。
 話題は外れるが、なぜかそんな映画館がわたしの小学生だったかのときに、あの『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー:監督 チャールトン・ヘストン:主演)を「(東京の)城北地区独占公開」とかでやって、新聞にカラー版二つ折りのでっかい折り込み広告を投入していたことはよ~く覚えている。あのときは、み~んなが「『ベン・ハー』、観に行かなくっちゃ!」と押し寄せたのだった。ウチの家族もみ~んなで行っただね。

 って、クエンティン・タランティーノも絡んだこの「グラインドハウス」の企画、今回観た『プラネット・テラー』ともう一本、タランティーノの監督した『デス・プルーフ』の2本立てという企画で、本編以外にも架空の映画の「予告編」をはさみ込んでの上映。しかもわざと映像にフィルムの傷のノイズを入れたり、映画途中で映写機トラブルでフィルムがストップ、焼けてしまうというのも仕込んでいる(余談だが、わたしは「名画座」での映画上映で、じっさいにこの映画のようにフィルムがストップし、ケロイドのように燃えてしまうところをじっさいに目撃したことがあるが)。

 さて、この『プラネット・テラー in グラインドハウス』、近未来(いや、現在形)「パンデミックSF」というか、要するに新手の「ゾンビ」もの、といったところ。冒頭からしばらくの演出が粗くって、「もう観るのやめちゃおうかな」って感じではあったのだけれども、その粗さが「グロテスクさ」と結びつくあたりから、「こういうえげつない映画もありだね」という感じになり、まあストーリーの細かいところはよくわからないにしても、いつしか「こりゃあ面白れえや」って感じになってしまった。「片脚マシンガール」というのも、CG合成も上出来でわたしの中では「エポック・メイキング」なものではあったし、エンディングも爽快ではあった。
 

2021-07-17(Sat)

 夢をみた。前にみた夢のように夢はひとつのドキュメント映画のようであり、わたしはそれを外から観客のようにみていて、「そうなのか」「なるほど」とかの感想を吐露している。それはどこか、みていた夢を目覚めたあとに思い出し、その夢のことを反芻して考えていることに似ている。自分でもその夢をみていて半分目覚めていたのではないかとも思う。
 夢はランボーに関してのことがらで、ランボーヴェルレーヌとの破綻した共同生活のことがメイン。そのことに、同じ時代の美術家、ファン・ゴッホゴーギャンとの同じく破綻した共同生活のことが重ねられる。その夢のストーリーを紡ぎだしていたのは「わたし」で、すべてはわたしの思索・思考から生み出された夢なのだが、その夢をみているわたしにとっては、わたしはその夢のストーリーの一観客なのだ。
 興味深いのは、わたしは今まで「ランボーヴェルレーヌ」の話と「ファン・ゴッホゴーギャン」の話とを重ねて考えたことなどまるでなかったというのに、この夢の中で両者が重ね合わせられていたこと。
 この両者の「事件」というのは、明らかにランボーヴェルレーヌとの「破綻」の方が時代的に先のことだとは思ったのだが、「けっこう時代的に近いのではないか」と目覚めてから調べてみた。
 すると、意外にもファン・ゴッホランボーより1歳ちょっと年長なだけで、つまりまるで「同時代人」だったこと。さらにファン・ゴッホの死もまた、やはりランボーの死に1年ほど先んじていただけで、両者ともその享年は同じく37歳なのだった。これは思いがけない「発見」だった(って、知っている人は多いことだろうけれども)。
 もちろん、ファン・ゴッホゴーギャンとのあいだにはランボーヴェルレーヌとのような「愛情」というファクターもなかっただろうが、それでもゴーギャンとの「共同生活」が破綻したときのファン・ゴッホの行動(「耳切断事件」)には、「愛情」が壊れたときの絶望感が読み取れるだろうし、その行為はヴェルレーヌランボーとの離別騒動のときにランボーに拳銃を発砲した事件とのアナロジーも考えられるだろう(細かく考えればかなりの相違はあるとはいえ)。
 「共同生活」というか「共同放浪」で二人で詩作に励もうとした(わけでもないかもしれないが)ヴェルレーヌランボー、そして「共同生活」で二人で画作に励もうとしたファン・ゴッホゴーギャン、19世紀末的なグローバルな資本主義発達期の「芸術」のあり方、その「挫折」という意味で、考え合わせるのはやはり興味深いことではあるし、ランボーの「詩作放棄」は拡張する資本主義の犠牲だったのでは、との考え方もできるだろう(同じくファン・ゴッホについても)。だからこそランボーは「詩作放棄」後、アフリカで商人になろうとしたのだ。「アフリカ」~まだヨーロッパ的資本主義が拡張してくる前の「周辺地域(ボーダー)」。
 いろいろと思索のタネになる、面白い「夢」ではあった。

 先日買ったDVD『ランボー 地獄の季節』は、ついに決行されてしまいそうな「オリンピック作戦」がじっさいに開始されてしまったあと、「テレビをみない」ためにその時まで観るのは取っておこうと思う。
 先日はやはり注文してあったDVD、タルコフスキー監督の『ストーカー』も到着した。

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 もう『ストーカー』などはどんな映画だったかの記憶もまったく残っていなくって、まあ今のわたしにはそういう映画も山ほどあるわけだけれども、この7月下旬から8月上旬にかけて、ウチにこもりながらそんな映画をいっぱい観てみようとは思っている(今日は「GYAO!」で『プラネット・テラー in グラインドハウス』を観たが)。

 先日、コンビニでの「くじ引き」で、カップ麺が当たってしまった。「ま、いいか」とありがたくいただいて帰ったが、わが家にカップ麺などというものが訪れるのは、ものすごく久しぶりのことである。数年ぶりのことになるのではないかと思う。
 まあ今すぐに食べようという気もちもないが、賞味期限が来るまで「保存食」として取っておこうと思う。

 昨日はスーパーでニラが安かったもので買ってしまい、「ではまた<台湾焼きそば>か?」と焼きそば麺を買ってしまったので、昨日の夕食はその「台湾焼きそば」。今日の昼食もオーソドックスな「焼きそば」になり、夕食で「レバニラ炒め」をつくって、ようやくニラを始末した。
 この「焼きそば」というヤツは、3食パックで麺を売っているもので、一度買うとしばらく「焼きそば」がつづいてしまうのが難だ(まだ「焼きそば麺」は1食分残っている)。「もやし」というヤツも同じくで、特にもやしは早く傷んでしまうので(有効な保存法があるらしいけれども、試みたことがない)、一度買ってしまうとしばらくはもやしを使った献立を考えなければならない。
 このところしばらくは、「けっこう豪華な食卓にしてみたいものだ」とは思いつづけてはいるのだが、なんだかしみったれた食事がつづいている。なんとか明日は、少しは立派な食事をしてみたいものだと思っている。

 報道では明日、「迎賓館」でもって来日中のIOCのバッハ会長を招いての「歓迎会」が開かれる。五輪組織委員会の橋本会長、スカ首相、小池都知事な40人ほどの参加が見込まれているという。誰だって「この<緊急事態宣言>下でやるかね?」とは思うところだが、橋本会長は「前から決まっていたスケジュールだ」と答えたらしい。
 「前から決まっていた」というのなら、皆の修学旅行や運動会、文化祭なんかもみ~んな「前から決まっていた」というのに「中止」に追い込まれている。いったいなぜこの「歓迎会」だけが優遇されるのか、橋本会長は答えていないし、なおいっそうの皆の反発を招くだけだろう。
 スカ内閣や五輪組織委員会は今、もう国民に納得されるように説明しようという努力も捨て去り、ただ「オレたちのやりたいようにやる!」ということで突っ走ろうとしている。これはまさにかつてのルーマニアチャウシェスクが取ったやり方ではないかと思うのだが、今の日本にスカ首相に鉄拳を下すような「正義」はないのだろうか(まあわたしだってのほほんと「今日の食事は?」なんてやってるわけだが)。
 

2021-07-16(Fri)

 わたしの勤務時間は午前中で終わるので、仕事をしているときには「今日の昼食は何にしようか」ということを熱心に考えてしまう。朝食はあまりに時間が早いこともあってバナナ1本ですませてしまうわけだし、ちゃんとした食事はやはり昼食からだ。だいたい冷蔵庫の中にあるはずの食材とかを考えて昼食を決定することが多いのだけれども、先日なぜか急に「ふりかけ」が食べたくなってしまい、仕事の帰りに駅前のスーパーで、このスーパーではそこまで「ふりかけ」は安くはないのだけれども、定番の「のりたま」と、もう一品「たらこ」とを買ってしまった。
 帰宅して両方を食べくらべてみて、「たらこ」はイマイチではあったけれども、う~ん、「のりたま」はさすがの美味しさだなあとは思ったのだった。やはり「ふりかけ」の元祖というか、60年以上の歴史を持つ味だわさ。

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 一方の「イマイチ」ではあった「たらこ」ふりかけ、「これはパスタにふりかければ即<たらこスパゲッティ>にもなるのではないか?」と、今日の昼食で試してみた。悪くはない。というか、「ごはん」にふりかけるよりはぜったいにこの方が美味しいだろう。「超お手軽料理」として、これからもやってみたいとは思うのだった。

 しかしこういう「お手軽チープ食生活」では、「もっとリッチな食事を楽しみたい!」というわたしの願望からは、どんどんとかけ離れてしまう。
 でも調理に手間のかかる「高級料理」はめんどいし、スーパーで売られている出来合いのパックはそ~んなに満足の出来る味でもないし、食べていても「こんなの、自分でつくれるじゃん!」って思ってしまう(そうすると自分でつくろうとして手間がかかり、「手間がかかるのはイヤだ!」という考えとのジレンマにはさまれてしまう)。「デパ地下」で売られている惣菜は美味しいけれども、しょっちゅう買いに行くということも出来ないわけで、けっきょくは「貧乏な食卓」になってしまうのだ。

 今日、ようやっとこの南関東も「梅雨明け」をしたという。けっこうこの梅雨明けは平年よりも早いそうだけれども、今年の梅雨は「短期集中型」というか、「さすがに梅雨だね」という天候がつづいた気がするので、「ようやく明けたか」という気がする。
 仕事の帰りに「ふるさと公園」を通ったが、この日はコブハクチョウ家族の姿は見られなかった。このところ、毎回この公園に訪れると必ずコブハクチョウたちの姿を見られたので、「あれ?」という感じではあった。
 公園を抜け、ウチの近くの畑にヒマワリの花がいっぱい咲いていた。映画の『ひまわり』には及ばないけれども、大きな花がたくさん咲いているのを見るのは気もちがいい。

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 帰宅して、「今日は梅雨明けしたから」と思いっきり洗濯をする。まぶしい陽射しの下に洗濯物を出すと、すぐにもみ~んな乾いてしまいそうだ。

 今日は歯科医への通院日。行ってみるといつもの担当医の先生ではなくって、応対がぜんぜん違うので面食らった。いつもの担当医先生はあんまり説明もなくガンガン治療を進めるタイプだったけれども、今日の担当医先生は「全体としてこういう治療方針で行きたいと思っています。それで今日はこのような治療を行います」と、懇切丁寧な説明をされ、わたしの同意を得てから治療にあたられる。もちろんクリニックのあり方としては今日の担当医の方のような治療方針が望ましいわけだろうけれども、なぜか前までの担当医さんの「ガンガンやるだね」という方針もよかったように思ってしまうのだった。さてさてはたして、今日の担当医先生はこの日だけで次回からはまた前の担当医先生に戻るのか、これからはずっと今日の新しい担当医先生になるのかはわからない。まあ看護師さんとのコンビネーションは、ジョークを交えながらやられていた前の担当医先生との方が「息が合っていた」気はしたが。

 さて、今日の時事通信が発表した「世論調査」で、スカ内閣の支持率が30パーセントを切り、不支持率は49.8パーセントと、50パーセントに迫ることになったという。
 今になってまだ支持率が30パーセント近くもあることにおどろくが、こうやってどんどんと支持率の低下しているスカ首相が、その施政姿勢をまったく変えようとしていないこともすごい。「国民のために働く内閣」というのがどんだけ強烈な「ウソ」だったことか。
 この日もまた、COVID-19新規感染者は増加し、連日千人を超えている東京都ばかりではなく、あちこちで急激な増加が始まっている。わたしの住む千葉県でもかなりの増加ぶりであり、「どうなることか」とは思うのだが、今回の<緊急事態宣言>の効果があるともまるで思えず、もっと危機的な状況にはなってしまうことだろう。
 このことは「国民の生活」よりも「東京オリパラ開催」を完全に優先しているスカ内閣の施政結果であり、もはや「犯罪」レベルではある。トップ為政者が国民に対して罪を犯す「犯罪人」であるという、「信じられない」ケースが、いまだ進行中である。
 

2021-07-15(Thu)

 勤め先で不意に、設備の所長さんに「ワクチン接種は終えられたんですか?」と聞かれた。そうか、あまり深く考えていなかったけれども、やはり同じ場所で働く同士として、「ワクチン接種」しているかしていないかは問われるところではあるだろう。ましてやこの職場、外から(まさに様々なところから)訪れてくる方々も多く、わたしなどはそういう人たちと直接の接触はないとはいえ、やはり感染を避ける意識は高く持たねばならない(まあわたしはいろんな箇所の消毒係だったりもするけれども)。そういうことでは、そのような設問を受ける前にワクチン接種予約を済ませていたのは僥倖だったというか、「まだなんですよ」などと答えるよりは「予約は済ませてるんですが」と答えられたのは、ずっと良かったわけだ。

 昨日は雨も降らなかったなあとは思っていたのだが、朝に外に出ると道路がしっとりと濡れていて、「やはり夜のうちに雨が降ったのか」とは思った。駅へと歩いているとわずかに雨も降りはじめ、「梅雨明けはまだだね」というところ。

 しかし職場に到着するとすっかり晴れていて、そのあとは気温もぐんぐんと上昇する。職場の外の並木道で、今年初めてのセミの鳴き声を聴いた。
 仕事を終えての帰り道、自宅駅の跨線橋の上から、みごとな入道雲が見られた。そして遠くからは雷鳴も聴こえてきた。跨線橋の上を歩いていても、陽に照らされて暑い。夏!夏!という感じだ。

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 このあたりは雨にもかみなりにも襲われなかったけれども、帰宅してテレビを見ると、千葉市では相当なゲリラ豪雨。埼玉県の方でもかなり降ったようだった。わが家はただひたすら暑く、もうすっかりエアコンのお世話になるのだった。

 今日はスカ首相を批判したりするのではなく(しようと思えば書きたいことはいっぱいあるが)、この頃ちょっと和んだ話題を。
 もう古いニュースになってしまったが、新宿の東口の街頭ヴィジョンに、3Dの巨大な三毛猫が登場して話題になっている。

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 こういう3Dの街頭ヴィジョンというのはもう海外では当たり前というか、中国の街頭ヴィジョンの映像ではリアルなSF世界のスペースシップが飛び出してくるようなのを見た記憶もある。今は日本もかつての「技術国」でもないから、こういうディスプレイの世界でも出遅れているのだろうけれども、「そのうちに日本でもやるんだろうな」とは思っていた。
 「ついに日本でも来たな」というところはあったけれども、それがありがちなSF的な映像ではなく、ごく身近な「三毛猫」の巨大版だったというのはうれしい。まあさすがに「ゴジラ」の国だね、というところもあるけれども、ネコというのはいつまでも見ていたいところもあるわけだし、「世界から出遅れたところから、<ネコ>で勝負してきた」というのは、まだ日本も捨てたものではないなと思わせられる。
 これは妙に巨大スポンサーが中途半端にメディア企業に発注しないで制作した成果というか、まさに<東京オリパラ>の札束バラまき戦術の対極にあるように思え、たとえば今の<東京オリパラ>の<聖火リレー>でのスポンサー企業のふるまいの醜さとかにうんざりしていただけに、この大きな三毛猫をみてホッとするところがある。今もつづく「COVID-19禍」、その施政の無策さにうんざりする中、こうやって皆でネコを見上げたりすることに、いちばん心を癒される気がした。ネコは無敵だ!
 来週には東京オリンピックの開会式が開かれるわけだけれども、そのセレモニーに今はまったく期待する気もちもない。<東京オリパラ>の関係者が、「三毛猫、イイじゃない?」などという発想をすることもないだろう。
 もしも、国立競技場のフィールドをネコが駆け抜けるようなことがあれば、わたしだって「あら、イイじゃない?」とも思ったりするだろうけれども。