ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-07-17(Sat)

 夢をみた。前にみた夢のように夢はひとつのドキュメント映画のようであり、わたしはそれを外から観客のようにみていて、「そうなのか」「なるほど」とかの感想を吐露している。それはどこか、みていた夢を目覚めたあとに思い出し、その夢のことを反芻して考えていることに似ている。自分でもその夢をみていて半分目覚めていたのではないかとも思う。
 夢はランボーに関してのことがらで、ランボーヴェルレーヌとの破綻した共同生活のことがメイン。そのことに、同じ時代の美術家、ファン・ゴッホゴーギャンとの同じく破綻した共同生活のことが重ねられる。その夢のストーリーを紡ぎだしていたのは「わたし」で、すべてはわたしの思索・思考から生み出された夢なのだが、その夢をみているわたしにとっては、わたしはその夢のストーリーの一観客なのだ。
 興味深いのは、わたしは今まで「ランボーヴェルレーヌ」の話と「ファン・ゴッホゴーギャン」の話とを重ねて考えたことなどまるでなかったというのに、この夢の中で両者が重ね合わせられていたこと。
 この両者の「事件」というのは、明らかにランボーヴェルレーヌとの「破綻」の方が時代的に先のことだとは思ったのだが、「けっこう時代的に近いのではないか」と目覚めてから調べてみた。
 すると、意外にもファン・ゴッホランボーより1歳ちょっと年長なだけで、つまりまるで「同時代人」だったこと。さらにファン・ゴッホの死もまた、やはりランボーの死に1年ほど先んじていただけで、両者ともその享年は同じく37歳なのだった。これは思いがけない「発見」だった(って、知っている人は多いことだろうけれども)。
 もちろん、ファン・ゴッホゴーギャンとのあいだにはランボーヴェルレーヌとのような「愛情」というファクターもなかっただろうが、それでもゴーギャンとの「共同生活」が破綻したときのファン・ゴッホの行動(「耳切断事件」)には、「愛情」が壊れたときの絶望感が読み取れるだろうし、その行為はヴェルレーヌランボーとの離別騒動のときにランボーに拳銃を発砲した事件とのアナロジーも考えられるだろう(細かく考えればかなりの相違はあるとはいえ)。
 「共同生活」というか「共同放浪」で二人で詩作に励もうとした(わけでもないかもしれないが)ヴェルレーヌランボー、そして「共同生活」で二人で画作に励もうとしたファン・ゴッホゴーギャン、19世紀末的なグローバルな資本主義発達期の「芸術」のあり方、その「挫折」という意味で、考え合わせるのはやはり興味深いことではあるし、ランボーの「詩作放棄」は拡張する資本主義の犠牲だったのでは、との考え方もできるだろう(同じくファン・ゴッホについても)。だからこそランボーは「詩作放棄」後、アフリカで商人になろうとしたのだ。「アフリカ」~まだヨーロッパ的資本主義が拡張してくる前の「周辺地域(ボーダー)」。
 いろいろと思索のタネになる、面白い「夢」ではあった。

 先日買ったDVD『ランボー 地獄の季節』は、ついに決行されてしまいそうな「オリンピック作戦」がじっさいに開始されてしまったあと、「テレビをみない」ためにその時まで観るのは取っておこうと思う。
 先日はやはり注文してあったDVD、タルコフスキー監督の『ストーカー』も到着した。

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 もう『ストーカー』などはどんな映画だったかの記憶もまったく残っていなくって、まあ今のわたしにはそういう映画も山ほどあるわけだけれども、この7月下旬から8月上旬にかけて、ウチにこもりながらそんな映画をいっぱい観てみようとは思っている(今日は「GYAO!」で『プラネット・テラー in グラインドハウス』を観たが)。

 先日、コンビニでの「くじ引き」で、カップ麺が当たってしまった。「ま、いいか」とありがたくいただいて帰ったが、わが家にカップ麺などというものが訪れるのは、ものすごく久しぶりのことである。数年ぶりのことになるのではないかと思う。
 まあ今すぐに食べようという気もちもないが、賞味期限が来るまで「保存食」として取っておこうと思う。

 昨日はスーパーでニラが安かったもので買ってしまい、「ではまた<台湾焼きそば>か?」と焼きそば麺を買ってしまったので、昨日の夕食はその「台湾焼きそば」。今日の昼食もオーソドックスな「焼きそば」になり、夕食で「レバニラ炒め」をつくって、ようやくニラを始末した。
 この「焼きそば」というヤツは、3食パックで麺を売っているもので、一度買うとしばらく「焼きそば」がつづいてしまうのが難だ(まだ「焼きそば麺」は1食分残っている)。「もやし」というヤツも同じくで、特にもやしは早く傷んでしまうので(有効な保存法があるらしいけれども、試みたことがない)、一度買ってしまうとしばらくはもやしを使った献立を考えなければならない。
 このところしばらくは、「けっこう豪華な食卓にしてみたいものだ」とは思いつづけてはいるのだが、なんだかしみったれた食事がつづいている。なんとか明日は、少しは立派な食事をしてみたいものだと思っている。

 報道では明日、「迎賓館」でもって来日中のIOCのバッハ会長を招いての「歓迎会」が開かれる。五輪組織委員会の橋本会長、スカ首相、小池都知事な40人ほどの参加が見込まれているという。誰だって「この<緊急事態宣言>下でやるかね?」とは思うところだが、橋本会長は「前から決まっていたスケジュールだ」と答えたらしい。
 「前から決まっていた」というのなら、皆の修学旅行や運動会、文化祭なんかもみ~んな「前から決まっていた」というのに「中止」に追い込まれている。いったいなぜこの「歓迎会」だけが優遇されるのか、橋本会長は答えていないし、なおいっそうの皆の反発を招くだけだろう。
 スカ内閣や五輪組織委員会は今、もう国民に納得されるように説明しようという努力も捨て去り、ただ「オレたちのやりたいようにやる!」ということで突っ走ろうとしている。これはまさにかつてのルーマニアチャウシェスクが取ったやり方ではないかと思うのだが、今の日本にスカ首相に鉄拳を下すような「正義」はないのだろうか(まあわたしだってのほほんと「今日の食事は?」なんてやってるわけだが)。