ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-11-14(Sat)

 昨日、またこれからは「Stay Home」だね、と決めたばかりなのだけれども、今、佐倉の「国立歴史民俗博物館」で開催されている『性差(ジェンダー)の日本史』展を観ようと思っていたことをすっかり忘れていた。
 それで確認のためにその「国立歴史民俗博物館」のサイトをみてみると、土日・祭日はネットからの事前予約が必要なのだった。「また東京の某美術館のように<クレジットカード決済>が求められるのか?」とおそれたが、さすがに国立の施設はそんな「貧民差別」をやるわけもなく、ただ予約して当日にチケットを買えばいいのだった。
 しかし、なんと今日も明日もすべて予約で埋まっていて、来週の日曜日以降しか予約はできないのだった。どうやら予想以上に評判を呼んでいる企画展のようだ。

国立歴史民俗博物館・開催中の企画展示

 とにかくはその来週日曜日の早い時間に予約を入れておいたけれども、なんだか会場は観客であふれそうだ。有給をとって仕事を休み、あまり混んでいないだろう平日に行くことを考えた方がいいかもしれない。

 その「国立歴史民俗博物館」に行ったことはないけれども、去年同じ佐倉市の郊外にある「DIC・川村記念美術館」へ、京成佐倉駅前から出ている無料バスに乗って『ジョセフ・コーネル展』を観に行ったことがある。今回も行くことになるだろう京成佐倉駅の周辺は起伏もあり、古い建物も残っていてとっても風情のある街並みだった記憶がある。博物館はともかく、いくらなんでも佐倉のあたりは都心のように人にあふれているということもないだろうし、ゆっくりと散策を楽しむこともできるだろうと思う。
 それはちょっとした「日帰りの旅」みたいなものになるだろうけれども(そういう行動をしたい)、考えてみたら今年になってからはまだ一度も、そういう「小旅行」みたいなことはやっていないのだった。今年いちどだけの小さな「旅」、楽しみである。

 今日はよく晴れて、あまり寒いということもなくって過ごしやすい一日だったと思うのだけれども、わたしは午前中に洗濯をしたぐらいで、何もしない、一歩も外に出ない一日だった。
 ニェネントもベッドの上で横になり、目を細めて何だか気もちよさそうに見える。

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 ネットを閲覧していて、筑摩書房の「webちくま」に金井美恵子が連載している『重箱の隅から』を見つけ、これは以前に少し読んでいて、彼女がわたしと同じ「慢性硬膜下血腫」でわたしと同じ時期に通院していたことなどを読んでいたのだけれども(彼女はわたしのように頭蓋骨に風穴を開けるようなこともなく治癒したらしいけれども)、その後の連載も継続していてまとめて読みたくなり、すっごく久しぶりにプリンターを起動させ、連載全文をプリントアウトした(そんなページ数ではない)。
 どうもわたしは、ちゃんと文章をマジメに読むにはやはり「紙媒体」こそに頼ってしまうというか、「スクロール」とかいうのに頼らず、ページをめくって読みたい<旧人類>なのである。
 今日は「国立歴史民俗博物館」の予約メールだとか、その歴史博物館への駅からのマップなどもプリントアウトして、プリンターに大活躍してもらった日になった。

 それで、COVID-19の新規感染者数は今日もまた増加している。菅首相は取材に答えて「Go To キャンペーン」は今のまま継続するし、「緊急事態宣言」という状況でもないと語ったという。どういうことなのか。はたして、3月に全国で「緊急事態宣言」が出されたときよりも、今の状況はよほど悪化しているのではないのか。「Go To キャンペーン」継続の背後には、主導する自民党の二階幹事長の意向があるという。
 今のCOVID-19感染者は、20代、30代の若い人たちの数が圧倒的に多いようだ。若い人たちには「COVID-19に感染しても重症化はしない」という考えが浸透しているようにも思えるけれども、中高年層の人たちが重症化する割合が高いことに変わりはない。わたしも中高年層の一人として危機感は持つし、とにかくもう「入院」なんてしたくはないのが本心だ。
 

2020-11-13(Fri)

 舞踏家(という呼称は正当なのかわからないが、人によってはこう呼ばれることを嫌う)であり、映画作家(という呼称は許してもらえるだろうか)でもあられた岩名雅記さんが亡くなられたとの報を、ツィッターで読んだ。とても悲しい知らせだ。
 わたしと岩名さんとの交流がどのようにして始まったのか、今では思い出すこともできないけれども、とにかくまずは岩名さんの舞踏公演を観に行くことから始まったのだろう。そのうちに岩名さんが映画を製作するようになり、その映画の感想を伝えることでだんだん親密になったのだろう。いきさつはこれも思い出せないのだけれども、彼の映画第3作『うらぎりひめ』ではなぜか、その映画パンフレットにわたしの文章が掲載された。ちょうどそのころ、自分の文章の文体でいろいろ試行錯誤していた頃でもあって、その内容と共にまさに「赤面」モノの文章だった。岩名さんには申し訳なかったと思っている。
 その罪滅ぼしというか、第4作の『シャルロット すさび』製作のときは、クラウドファウンディングでわたしとしてはせいいっぱいの協力をさせていただいた。『シャルロット すさび』が完成して劇場公開され、もちろんわたしも観に行って岩名さんにお会いし、感想を問われもしたのだけれども、ダメな映画だったからというのではなく、それはまったくそれまでに観たことのないような映画だった。今思い出しても強烈なイメージにとらえられるのだけれども、わたしにはどうしても観た感想を言葉にすることができず、岩名さんに伝えることができなかった。このこともまた、岩名さんには申し訳なかったと思っている。
 岩名さんは第5作になる映画を製作中と聞いていたが、突然の訃報におどろき悲しんだ。さいごにお会いしたのは、彼のソロ舞踏公演でのことだったと思うけれども、あまりお話もせずにわたしは会場をあとにした(このこともまた、申し訳なかったと思っている)。
 岩名さんの「舞踏」は、性的なメタファー、表現も多用されていたのだけれども、そんな舞台の中で、ただ身体が突っ立っているということの「凄み」がにじみ出ていたと思い、そういう舞台を思い出しても「じわ~」っときてしまう。

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 思い出してみると、どうもあまり岩名さんといっしょに飲んだりした記憶が残っていない。これはたとえば岩名さんの舞台の「打ち上げ」の席などでも、岩名さんの周囲には一種の「老害」、「<舞踏>というものはだねえ」だとか、「土方は‥‥」などと語り出す年配の方々があふれているわけで、わたしはそういう人たちと会話することが耐えられないので同席しないようにしているのだった。
 これは他の<舞踏>の方の舞台でも同じことで、けっこう親しくしていただいている方の舞台でも、はねたあとにいろいろとお話をしたいとは思っていても、やはり周囲にそういう「老害」な方々があふれることになるので、お話もせずに帰ってきてしまうのだ。
 そういう意味でも、岩名さんとの交流を思い出しても「わたしはダメだったなあ」という記憶が先立ってしまう。そんなうちに岩名さんは旅立たれてしまわれた。新作映画を観て、こんどこそはちゃんと感想を伝えたかったのだが、今はただ追悼するしかありません。

 さて、昨日はあまりに寒かったので、今朝はちょっと着込んで、先日買った新しいパーカーを着て、マフラーをして出かけた。ところが、新しいパーカーのポケットに手を突っ込んでいると、「あれれっ?」、ポケットに穴があいている。見てみると、破れているのではなくって縫製で失敗しているのだった。「返品しようか?」とも思ったけれども、もうすでに買ったときのレシートは処分してしまっているし、返品交換はもう不可能だろう。まあそんなに大きな穴ではないし、注意して使うしかない。

 勤め先の駅で降りて外を歩いていると、ビルのあいだからきれいな三日月と、そのそばに明るい星が並んでいるのがみえた。トルコの国旗を思い浮かべた(パキスタン国旗も似ている)。あの星は「金星」なのだろうか。「夜景」モードで撮影したら、月も星もくっきりと写すことができた。

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 けっきょく昼になると晴れて気温も上がり、昨日のように「寒い」ということもなかった。
 実は今日は仕事のあと有楽町のあたりに出て、観たい展覧会をやっているギャラリーを2軒ほど巡回しようと思っていたのだけれども、このところ報道されているCOVID-19感染者数は増加するばかりで、どうもこれは春や夏の「COVID-19禍」を超えるものではないかと思えるのだった。今数値の出ている感染者数は、つまりはしばらく前に感染した人が発症した結果の数字であり、今げんざいの「感染の危機」というのは数値で出ている以上のものではないかと想像し、自分の中では今はまさに「緊急事態」という認識になった。
 だから今日はギャラリーとかには行かずにまっすぐ帰宅し、これからも映画館で観たい映画もあったけれども映画館にも行かず、仕事での出勤はしょうがないけれども、それ以外では春のように「Stay Home」しよう、ということに決めた。

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2020-11-12(Thu)

 今朝も寒い。というか、あとで書くけれども今日は一日、強烈に寒かった。早朝に歩く暗闇の冷たい空気の中、またうっすらと雲が見えるようなので「夜景」モードで一枚撮ってみた。雲が見えるでしょうか?

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 仕事の帰りに駅ビルの出店で「柄物マスク」をチェックして、2枚ほど買った。「柄」というか、布目の残っているグレーのマスクと、ただ真っ黒いマスクとを買っただけで、「柄物マスク」を買うのだ、という意識からは外れている。でもやはり「黒マスク」というのはマストアイテムというか、街を歩いていてもこの「黒マスク軍団」の結束力の高さというのは気になるというか「要チェック」ではある。
 こう言ってはアレだが、ただ「黒い」だけの、「それって<布マスク>じゃないよね」という方々は除外させていただいて、それでもやはり「ちゃんと縫製した<黒マスク>」をはめていらっしゃる方には尊敬のまなざしを向けさせていただく。そこには「フン!マスクは<黒>じゃなくっちゃね!」という強い意志すら感じられ、コレはやはり「黒マスク軍団」と呼称させていただくにふさわしいと思う。わたしだってそんな「軍団」のひとりには、こっそりと加盟させていただきたいと思い、それで今日は「黒マスク」を選んだ。明日からは「軍団」の一員として街を闊歩したいものだ。

 今日は勤め先で、賞味期限を1年以上過ぎた「いわしのオイルサーディン」の缶詰をもらった。缶詰などというものは、基本「賞味期限」など無関係なのである。むかしむかし、製法がいい加減だった缶詰を食べたせいで(それだけの原因ではないけれども)どこかの国の北極遠征隊が極地探検のとちゅうで全滅してしまったということもあったようだけれども、今は21世紀。缶詰というものはそんなにめったやたらに「ヤバい」ことにはならない。もしも本当にヤバくなると、その缶詰は中にガスがたまってパンパンにふくらんでしまうから、すぐにわかるのである。
 しかし、この「オイルサーディン」、どうしようかと、またネットで検索するとスパゲッティにからめると美味だということがわかった。缶詰の中の油も、すべて活用する。
 オイルサーディンをけっこう時間をかけて炒め、さいごにしょう油を足してやってゆでたパスタと混ぜ合わせればいいのだ。パッパッと「きざみのり」をかけて食卓に出せば、これはなかなかにおいしいスパゲッティではあった。

 ‥‥しかし、今日は寒い日であった。部屋にいても「寒い!」という感じで、ついに今まで不精をしてリヴィングに置きっぱなしにしてあった「扇風機」をようやく片付け、代わりに「電気ストーブ」をセットした。
 リヴィングで、わたしのうしろに控えてわたしをずっとウォッチングしているニェネントくんも、「あら、暖かくっていいんじゃないの?」という感じである。ニェネントくんは「暑がり」で「寒がり」で、これからまたニェネントくんにはつらい季節になるのであろう。夏のあいだはエアコンの冷房をつけっぱなしで仕事に出ていたけれども、ウチのエアコンの「暖房」はまるっきし機能しない(ただ電気代の無駄なのだ)。さすがに「電気ストーブ」をつけっぱなしで家を出るのはおそろしいので、ニェネントくんには「まあ布団にもぐっていてよね!」みたいな対応しかしていないのだ。

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『毛皮のヴィーナス』(2013) デイヴィッド・アイヴス:原作・脚本 ロマン・ポランスキー:脚本・監督

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 これはマゾッホの有名な『毛皮を着たヴィーナス』をそのまま映画化したのではなく、『毛皮を着たヴィーナス』を舞台化しようとするディレクターと、そのオーディションにやってきた女性との「二人芝居」である。登場人物はエマニュエル・セニエとマチュー・アマルニックの二人だけで、場所もオーディションのための人のいなくなった劇場に限られている。想像できるようにもともとは「二人芝居」としての舞台作品で、それをポランスキーが才気たっぷりに映像化したのである。

 「もうオーディションも終わったからわたしゃ帰るよ」という脚本家・演出家のトマ・ノバチェク(マチュー・アマルニック)のところに、「遅れちゃったわよ」というワンダ・ジュルダン(エマニュエル・セニエ)があらわれる。「なんやねん、この女?」という感じでトマはワンダに詰問するのだけれども、やっぱ、このワンダという女性はバカっぽい。追い返そうとするのだが、意外とそのあとの会話が面白い。「何も知らないバカ女」だと思っていたのに、ちゃんと脚本を読みこんでいて諳んじてるし、ルー・リードの曲のことも抑えているし、原作の解釈も的を得ているのだ。しかも舞台の照明のオペレートも完璧に出来る。
 ここまでが映画始まってから15分ぐらいなんだけれども、その脚本の妙と演出のキレで(そして主演二人の演技で)、あまりに面白いというか、わたしはもう笑いっぱなしだった。ここまではもう最高! 笑いながら、「コレ、映画館でこんだけ笑いつづけてたらぜったい周囲の観客から顰蹙モノだね」とか思う。

 つまり、それから「オーディション」ということでトマもまた一方の役を演じ、ここで「二人舞台」と、その脚本の解釈、またトマの私生活のことまでも俎上にあげられる。
 ワンダはトマの婚約者のことも仔細に知っているし、「なんだよ、コレはトマに向けられた<刺客>だな」という解釈になるだろう。
 まさにその通りで、ワンダが告発するのはトマの「女性蔑視」、「差別意識」であり、ここでまさに映画は原作の「毛皮を着たヴィーナス」のねじれた再現になって行く。

 しかい、しかしだね、こういう、「男」の女性への性的抑圧意識をテーマにしてしまうとなると、あなた、あなただよ、ロマン・ポランスキー自身のペドフィリア性向はどうなのよ!と問いただしたくはなってしまうのが「人情」というものではあろうか。
 ポランスキーが、自分の伴侶であるところのエマニュエル・セニエのことを「どうだ、すっごい女優だろう?」という気もちもわからないわけではないが、あんたが「男性演出家の女性への差別意識」を撮っていいのかよ?という気分はぬぐえない。
 それともこの作品は、ポランスキーの「自分の性癖」への懺悔、という作品だったのだろうかね?
 

2020-11-11(Wed)

 仕事の帰りに、また「ボルシチ」を買う。これで2瓶になったから、目論見通りにまずはさいしょに1瓶目で「どんな味か」味見をして、そのあとに2瓶目で「ではこんな材料を足してみよう/こういう味付けにしてみよう」とかのアレンジができるようになるであろう。

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 パソコンで、しばらくやっていないメールのチェックをやろうとしたら、このところ使っていなかったせいか、Log Inからやり直さなくてはならなくなっていた。そしたらパスワードもまた入力しなければならないのだけれども、そのパスワードがわからなくなってしまった。
 プロバイダから来ている書類をチェックすればわかるはずだが、その書類がどこにしまってあるのかわからなくなった。「これは困ったぞ」となり、プロバイダに電話ででも問い合わせないといけないかと思っていたのだけれども、なんとか本棚に立ててあったフォルダの中に見つけることが出来、無事に復活した。
 しかし、今ではもうパソコンの方のメールには重要なメールなど何も届かないし、けっきょくチェックしてみ~んな削除するだけのことではあるのだけれども、やはりメールチェックできないとなるとそれは困るだろう。それにしてもWindowsの「Outlook」というヤツは、わたしがWindowsを操作していてもいっちばん気にくわないヤツでもある。もう今ではWindowsのオペレーションにも慣れ、いろんなことは過去に使っていたMacよりも使いやすいかも、と思うぐらいに魂を売ってしまっているのだけれども、この「Outlook」だけは使いづらい。ぜったいMac時代がいろいろとやり易かった(まあわたしの使い方が悪いという可能性が高いのだけれども)。

 さて、いろいろ報道をみていると、COVID-19の「第3波」がやってきたみたいだ。とにかく今は北海道の感染者数が増加をつづけていて今までの「最多」にもなってしまっているし、大阪でも、東京でも増加しつづけている。
 それで何がいちばん不安かというと、政府がこのような事態でもいつまでも「Go To キャンペーン」をストップせず、何ら具体的なCOVID-19対策をとろうとしないことで、これはつまりトランプ政権下のアメリカ合衆国とか、ボルソナロ政権下のブラジルと変わるところはない。
 ここで面白い(ひどい)のが、今の政府の「新型コロナウイルス対策分科会長」である尾身茂という人物が、「感染防止策」として自ら映像でやってみせた「会食での食事の仕方」なる「食べ方指南」で、とにかくは「マスクは出来る限りはずさない」のが第一条件で、ずっとマスクをつけて会食にのぞむわけだけれども、「いざ食べるぜ」というときだけ左手でマスクを外して食べ物を口に放り込み、食べ物を口にいれたらすぐにまたマスクをかける、ということを繰り返しましょう、ということなのだ。
 これは何か、COVID-19禍でコメディアンがやってみせるジョークのひとつとしか思えないのだが、この尾身という人は「マジメ」にやってるからすごい。驚異だ。まあわたしなどは、「じゃあ酒を飲むときにはどうしたらいいんだ」ということを聞いてみたいのだが、これは「そこまでしてもわたしゃ会食がしたいのねん!」という人間の「妄執」というか、「執念」のあらわれなのだろうか。わたしゃそこまで努力してまで「会食」しようとは思わないけれどもね。

 今日は夕方から「GYAO!」で、ロマン・ポランスキー監督の『毛皮のヴィーナス』を観た。さいしょの15分は「傑作」で、笑いっぱなしだったけれども、こういう感覚というのは今読んでいるナボコフの『ロリータ』にも通じるものではないのかとも思った。
 夕食は適当にすませて、夕食を終えてしまうとすぐに寝てしまう(横になってしまう)のがわたしの最近の悪い習慣なのだけれども、ベッドに行って横になって本を読もうとすると、「お約束」で、ニェネントくんがわたしの読書のじゃまをしにやって来るのである。けっきょく今は「こういうのが今のわたしの人生なのだよな」とあきらめ、わたしよりもその生命がずっと短かいはずのニェネントくんの、そのネコの生活をいくらかでも楽しいものにしてあげようと、「ニェネントのお楽しみ」とは何だろうかと考えながら、そんなわたしの考える「ニェネントのお楽しみ」のために尽くすのであった。
 

2020-11-10(Tue)

 昨日のことで書くのを忘れていたのだけれども、あの「野良ネコ通り」で、ずいぶんと久しぶりに「ヒゲ殿下」の姿を見た。前にさいごに「ヒゲ殿下」の姿を見たのは冷たい雨の日で、殿下は雨にびしょ濡れになって草むらのところをさまよっているところだった。いかにも雨が冷たそうで、「何とかしてあげたい」とは思ったのだったが。
 そのあとその姿を見なくなって、「やはりあの日の雨はきびしく、あれでもうダメだったのかな」とは思っていただけに、その姿をまた見ることができたのはすっごくうれしかった。

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 何枚か写真を撮ったのだけれども、たいていは手前の草むらに自動的にピントが合ってしまい、つまり殿下はピンボケになってしまったのだった。
 わたしも目が悪いし、天気がいいとモニターのディスプレイに光が反射し、「ちゃんと撮れているのかどうか」わからないまま撮ってしまうことが多い。こういうところはちゃんと昔のカメラのような、もっと高級なデジカメのような、ファインダーがついている方がいい。

 今日は仕事の帰り、駅への通り道のビルの中、週替わりの出店で柄モノのマスクが売られていた。今回は中国製だけれども、けっこう気に入った柄のものがあり、価格も500円しないのでひとつ買って帰った。前に買ったヴェトナム製のマスクは今でもいちばんのお気に入りだけれども、この中国製も悪くない。ウチの近くのショッピングセンターで一枚千円で売っているようなモノよりずっといい。
 この「COVID-19禍」の世の中で、重要なファッションアイテムは「布製柄マスク」である。外を歩いていると、そういう「柄マスク」をはめて歩いている人ともすれ違うこともよくある。多いのは「和柄」というか、何と言うか「風呂敷」みたいな柄のマスクなのだけれども、アレは正直言って「年寄りくさい」。そんな中で、カッコいいマスクの人とかと出会うと、「あのマスク、いいな。どこで買ったのだろう?」とか思ってしまう。
 わたしもまずは「無地の布マスク」からはじまって、3~4枚の柄マスクを買ったけれども、だんだんに「こういう縫製はダメ」とか「この手の柄がいいのだ」とかの好みが出てきた。これからも冬になるわけだし、どうせこういう「With マスク」という日常生活は当分つづくだろう。だったらやはり、自分の気に入ったマスクで外を歩いてみたい。そういうことではまだあと2~3枚ぐらい買ってもいいかな、などと思ってはいる。

 今日も晴天で、自宅駅からの帰り道はピーカン照りで、空には雲ひとつなくただただ青い。写真を撮っても面白いわけではない。
 帰宅すると、ニェネントは和室のわたしのベッドの上でぐっすりと睡眠中。わたしがそばに行ってもまるっきし気がつかないで眠りつづけている。こういう「熟睡」というのは、ニェネントにはけっこうめずらしいことだ。

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 3時ごろから北のスーパーに買い物に出たが、このときには空にけっこう雲が出てきていた。あまりアテにならない天気予報では、当分は「晴れ」がつづくらしいが。

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 昨日から久しぶりにナボコフの『ロリータ』を再読し始めたけれども、前に読んでから今までのあいだに(わたしの中でも)犯罪としての「小児性愛」(ペドフィリア)という概念が浸透してしまったというか、読んでいて「これはやばい、おぞましいや」という気分にならないわけでもない。ただ、もうちょっとちゃっちゃか読み進められると思っていたけれども、文章の密度が濃いというか、ただストーリーを進めるための会話描写とか叙述とかがないので、読むのに時間がかかる。ふつうの小説なら文庫本で一日に百ページぐらいは読めるのだけれども、これがせいぜい50ページぐらいしか進行しない。文庫本で600ページあるわけだから、これは2週間かかるなあ。
 夜、寝るときにはナボコフの研究者のオーソリティ、ブライアン・ボイドによる『ナボコフ伝』を読むのだけれども、さすがにブライアン・ボイドというか、その「序」だけでも、自分の中のナボコフ観を一変させられる思いがする。
 

『ランナウェイズ』(2010) シェリー・カーリー:原作 フローリア・シジスモンディ:脚本・監督

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 「ガールズ・ロックバンド」の歴史をたどれば、まずは60年代末に出てきた「The Shaggs」という、何ともどう評価したらいいのかわからないバンドが思い出されるのだけれども、(それはあまりに「異質」なので抜かしといて)パンクの時代になるとイギリスを中心に多くのガールズ・バンドが登場してきた。「Slits」とか「X Ray Spex」とか「Delta 5」とかいろいろあったけれども、そんなパンクの時代よりもちょっと前に、アメリカでは「Runaways」が登場した。これがなぜか日本でブレイクして大人気になり、わたしも当時テレビで彼女らの演奏を見たものだったし、あのときは普通の週刊詩まで彼女たちに取材していた記事も読んだ記憶がある。そのときはヴォーカルのシェリー・カーリーばかりが話題になり、まあそれも彼女のコスチュームのコルセットとガーターベルトだけ、というあたりにも理由があったわけで、日本のオヤジ連中も「お、おう!」と鼻の下を長くしたのだった(きっとね)。
 その日本公演も彼女らの「不和」に輪をかけたらしく、人気も下火になっていつしか解散してしまったらしいのだけれども、ところがそのあと、メンバーのギタリストだったジョーン・ジェット(そもそも、「Runaways」も彼女の意志で生まれたバンドだった)が「Joan Jett & Blackhearts」のフロントとして登場し、「Runaways」なんか問題にならない世界的な人気を博してしまうのだった。今でもわたしも、「女性ロッカー(ギターも弾く)」で誰がいちばんか?とか考えると、メジャーに成功を収めたミュージシャンでいえば、「Pretenders」のクリッシー・ハインドか、このジョーン・ジェットのどちらかという気がする。甲乙つけがたい。

 ということで前置きが長くなってしまったけれども、これはその「Runaways」の伝記(と言うのか)映画である。実はわたし、この映画が公開当時、まあ懐かしい「Runaways」の映画ではあるし、クリステン・スチュワートとかダコタ・ファニングが出てることだし、映画館に観に行ったのでした。
 もうそのとき観た記憶など残っていないのだけれども、ただ、日本公演のときシェリー・カーリーに扮したダコタ・ファニングが、ステージのドラッグ錠剤をヒールで踏みつぶし、そのドラッグをうつぶせて舐めとるショットで、ダコタ・ファニングの「いつまでも子役ではない」という女優魂を見た思いがしたこと、そこだけは記憶していた。それ以来、10年ぶりぐらいの再見である。

 むむむ。これはまた、正直言って「へったくそ」な演出の映画だなあ。なんでもシェリー・カーリーの書いた「自伝」を基にしたものだというが、プロデューサーにジョーン・ジェットも名を連ねているわけで、おそらく監督はシェリー・カーリーの原作とジョーン・ジェットの「いや、それは実はね」みたいな話の板挟みになってしまったのではないかとも思う。ドラッグ問題とかシェリーの家族の問題とか、「あとは想像力で補ってよ」みたいなのが多すぎる(ところで、ここでシェリー・カーリーの母親を演じてちょこっと登場していたのは、あのテイタム・オニールなのだったらしい。わかんなかったよ。というか、新旧子役役者が3人集合していたのだ)。

 ただ、ライヴハウスの映像とか、特にトレーラーハウスでのリハーサルというか練習のシーンはとっても良くって、「ははあ、この監督さんはきっと、プロモーションヴィデオとかのキャリアのある人なんだろうな」とは思った(あとで調べて、大当たりだったが)。
 ここで、プロデューサーのキム・フォウリー(この実在の人物はフランク・ザッパも彼のことを語っている60年代の「伝説」の人物でもあるのだけれども)を演じるマイケル・シャノンが「イイ感じ」というか、「この映画はマイケル・シャノンクリステン・スチュワートダコタ・ファニングのパフォーマンスを見る映画なのだな」と、強く思うのだった。
 妙に「ドラマ」の演出を観ようとするのではなく、この3人の演技を観ていればいいのだ。そんな映画だと思った。ちなみにこの監督さん、長編デビュー作のこの作品のあと何本か短篇を撮り、今年の初めに2本目の長編映画として、あのヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』を映画化したものが公開されたらしい。ちょっと観てみたいのだけれども、知られた俳優さんも出ていないようだし、そもそもの評判も芳しくないようなので、やはり日本での公開は無理なんだろう。