ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ベルリン・天使の詩』(1987) ヴィム・ヴェンダース:監督

 わたしが「Amazon Prime Video」で観たのでは、この映画のタイトルは「Wings of Desire」となっていて、「それじゃあウォン・カーウァイ(『欲望の翼』)じゃないか」とか思ったのだが、「Amazon Prime Video」のフィルムは「アメリカ版」だったようで、じっさいこの作品のアメリカでのタイトルは「Wings of Desire」なのだった。う~ん、どうもこの作品にそぐわないタイトルではないかと思ってしまったが、ドイツ語の原題は「Der Himmel über Berlin」で、「ベルリンの空」という意味らしい。
 こう見てみると、邦題の『ベルリン・天使の詩』というのはなかなか「いい感じ」のうまい邦題だな、などとは思ってしまう。これは勝手な想像だけれども、このタイトルのおかげで女性観客は増加したんじゃないかな、とは思ってしまう(じっさい、日本を訪れたヴェンダースはこの作品上映中の映画館へ行き、そこに女性観客しかいないことに驚いたという)。

 脚本はヴィム・ヴェンダースとペーター・ハントケ(最近ノーベル文学賞を受賞された)とが共同で書き、撮影はそのときほぼ引退状態だったアンリ・アルカンを説得して復帰させたのだった。アンリ・アルカンは映画の中の天使の視覚をあらわすため、古い絹のストッキングをフィルターとして使用したという。
 そのようにこの作品、登場する天使の視点から描かれることが多いけれども、その画面はモノクロ。つまり天使は色彩を認識できないらしいが、人の心の中を聞くことが出来る。人間には天使の姿を見ることは出来ないが、子供たちには見えるらしい。
 映画にはダミエル(ブルーノ・ガンツ)とその友のカシエル(オットー・ザンダー)という二人の天使が主に登場するけれども、舞台となるベルリンの街には多くの天使がいて、人々の心の声を聞いて記録しようとしている(特に図書館には大ぜいの天使が人々に寄り添っている)。天使は心くじけそうな人の心の声を聞くと「なんとか励ましてあげよう」とする。あるときは人に「立ち向かう勇気」を与えるときもあるが、あるときには人を救えなかったりもする。
 前半はまだ東西に分離されているベルリンの市街、まだ大戦の傷跡の残る市街を舞台に、さまざまな人々の心の声が観客にも聞こえてくる。ときどき画面はフルカラーになるのだけれども、それはその視点は「人間の視点」ということだろうか。
 アンリ・アルカンのカメラは柔らかに移動し、カメラ自体が「天使」のようである。じっさい、図書館の中をカメラがゆっくりと進むとき、そこにいる天使たちはカメラを認めて「カメラ目線」になり、カメラに向かって微笑むのだ。

 「子供が子供であった頃‥‥」という詩のような言葉が何度も繰り返され、それは天使ダミエルの言葉なのかもしれない。そんな言葉も合わせて、この映画全体が「一編の詩」のような印象にもなっていたと思う。
 わたしが好きだった言葉は、「子供が子供であった頃、みんなが魂を持っていると思っていた。そして魂はひとつなのだ。」という言葉。

 アメリカからピーター・フォークが映画出演のためにベルリンにやって来て、廃墟の中の撮影セットでナチス時代の映画に出演する。ピーター・フォークは撮影の合間に、そばにいるダミエルに「君のことは見えないけれども感じるよ。そこにいるんだろう?」と声をかける。
 市内で興行していたサーカス団は閉鎖、解散することになり、サーカス団の空中ブランコ乗りである孤独な女性、マリオン(ソルヴェーグ・ドマルタン)の存在にダミエルは感情移入するようになる。
 ダミエルはだんだんに「観察者」であることを捨て、「天使」から「人間」になり、「経験」ということをしてみたいと思うようになる。そこでマリオンを知ったことは決定的だったのかもしれない。
 カシエルとそういう話をしていたダミエルは気を失って倒れ、カシエルはダミエルを置いて行く。気づいたダミエルは目にするすべてのものに「色」があることに感動し、通りかかった人に「色の名前」を聞いたりする。人間になったダミエルは無邪気にはしゃいでいるようで、まるで子どものようであった。そのとき彼が語るのは、「子供が子供であった頃、初雪が待ち遠しかった。今だってそうだ」などという言葉で、それはダミエルの魂が「子供」であることをあらわしているだろう。
 ピーター・フォークにあいさつしたダミエルは、ピーター・フォークもかつて「天使」だったことを知る。そしてダミエルはマリオンに会いに行くのだった。

 ストーリーを抽出して書けばとても単純なものだけれども、この作品、一本の作品としてまさに「ベルリン」の市街を舞台に、そこにいる人々の魂、心が映像と重なり合う姿を受け止める作品、といえるかと思う。まさに「一編の詩」。
 ラストの、マリオンがダミエルに語りかける「独白」のような言葉は、やはり先日観た『パリ、テキサス』のラストの、ナスターシャ・キンスキーの独白を思い起こさせられてしまう。
 それと印象に残るのは、飛び降り自殺しようとする男をとめられなかったカシエルが絶望し、戦勝記念塔の上から自分も飛び下りるシーンで、そこまで静かな動きだったカメラが急速に乱れ、揺れながらベルリンの市街を高速で通り抜ける映像。心に残るものだった。

 映画のラストに、映画で使われた楽曲のリストが出てきて、そこにはローリー・アンダーソンなどの名前もあったのだけれども、わたしがおどろいたのは、わたしの大好きな2つのバンド、「タキシードムーン」と「ミニマル・コンパクト」の名前があったこと。特に「ミニマル・コンパクト」は、昔わたしが夢中になった「When I Go」という曲なのだった。
 映画を観ていてその音楽が聴こえてくれば気がつかないわけもなく、おそらくは「背景音」的な扱いだったのだろう。これを聴こうとしたならヴォリュームをとてつもなく上げ、近所から苦情殺到のレベルにしないと聴こえてこないことだろう。こういうのは映画館にはかなわない(ヘッドフォンをすれば聴けるのだろうか?)。