ある年の10月12日の深夜3時、ある家でオールナイトで開かれていたパーティーから、女子大生のクララは「ウチへ帰る」と会場をあとにする。帰り道、公園のそばで男がクララに近づき、彼女にガソリンをぶっかけ、ライターで火をつける。
彼女の焼死体は翌朝発見され、捜査が始まった。彼女の持っていたスマホは無傷に回収され、それで彼女の身元もわかるし、事件の直前に友だちにメール画像も送っていた。
捜査にあたったのは現地警察署の若い刑事のヨアン(バスティアン・ブイヨン)、ベテランのマルソー(ブーリ・ランネール)らの面々。まずヨアンとマルソーとでクララの家を訪れ、クララが殺害されたことを告げる任にあたるのだが、被害者の家の中に被害者とネコがいっしょに写っている写真を眼にして、ことばに詰まってしまうのだった(映画の冒頭、夜中に家に帰るクララのそばに黒猫がいるのが映っていたし、そのあとも映画の中には随所に「黒猫」が登場する。実は犯人は「黒猫」なのだ、というか、この「黒猫」が見つからない犯人の「暗喩」なのだろう)。
まず、クララが最近付き合っていた男が参考人で取り調べを受けるが、アリバイがあるようだ。調べて行くとクララと関係のあった男たちが次々に捜査線に浮上し、取り調べが行われるが捜査は進行しない。クララは、何というか「男を求める」タイプの女性だったようで、何人もの彼女と関係のあった男たちの存在があらわになる。参考人の中にはクソみたいな男もいたし、まさに「DV犯」の男もいた。
ヨアンによる取り調べに、クララの女友達は「なんで彼女は殺されたのだと思う? 彼女が<女の子>だったからよ」と語るし、捜査する警察官の中にはあからさまにクララを侮蔑することばを吐く人物もいて、ヨアンを怒らせる。そんなヨアンも、「取り調べを受けた男性らは全員、犯人の可能性がある」と思う。
どうもこの映画が描くのは、ジェンダー、性差別、ミソジニーの問題でもあるようだ。ヨアンの同僚のマルソーは自分の妻が浮気して妊娠していて、夫婦関係も泥沼状態にあり、思いっきり自分の個人的感情を参考人にぶっつけたりもする。
事件は未解決のまま3年の月日が流れるが、そのとき、予審判事(女性)がヨアンが過去に提出した調書を読んで事件に興味を持ち、ヨアンに「もういちど捜査してみないか?」と持ちかける。ちょうど事件から3周年の日も近く、クララの墓のそばに「隠しカメラ」を仕込んでみる計画が実行される。犯人がクララの墓参りをするのではないか、というわけだ。
このときには警察の捜査陣も一新されていて、ヨアンのもとには「優秀な成績を持ちながらも自分から現場配属を望んだ」ナディーアという女性もいる。彼女が「本部詰め」を望まなないというのにも、本部の中で「女性であることの困難さ」を感じていたらしい。
ここで、仕込んだ隠しカメラには、クララの墓の前で突っ伏して祈る男の姿が映されていて、捜査陣は色めき立つのだが。
もちろんその男は「犯人」ではなかったのだが、ここでナディーアは「男と女のあいだの溝は埋まらない」と語り、最後の容疑者の件から「生者」と「死者」という、それまでの「男性」と「女性」という二項対立とは別の考えを語る。ここに、主人公のヨアンの囚われていた問題もあったのではないかと思えたし、映画の視点が拡がった思いがする(この挿話を「無用」と感じる人もいるかもしれないが)。
ラストの、自転車で公道を走るヨアンの姿には、この事件に囚われてしまっていたヨアンが、事件から解放されたことを象徴していたのかもしれない。
事件が解決したわけではないのだが、映画の冒頭から「未解決事件」と語られていたわけだから、「未消化感」に陥るわけでもない。
先日観た同じフランス映画の『落下の解剖学』も、結末が「真実」だという作品ではなかったが、『落下の解剖学』が「事件」を通じて家族それぞれの「思い」を解体して見せてくれたように、この『12日の殺人』は、捜査にあたる人々の、事件による「ゆらぎ」を捉えた作品だっただろうか(そういえば、『落下の解剖学』も舞台はこの映画と同じく「グルノーブル」だったのではなかったか?)。観客のわたしの心もまたゆるがされるような、インパクトの強い作品だった。