ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『プードルの身代金』(1972) パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳

 ハイスミスの作品には、読後感のよろしくないものがあれこれとあるけれども、この『プードルの身代金』からは、読み終わってもただ「やりきれない」という気もちから抜けられない。

 端的にいえば、主人公のクラレンス・デュアメルが「あわれ」というか、「どうにかならなかったものだろうか」とは思うことになる。なるほど彼にはその場の判断を誤ったこともあったし(たしかに、彼の運命を決める「大きな過ち」も犯した)、人間関係でも成熟していない面があっただろう。しかし本質的にやさしい人物であり、理想主義者であったクラレンスは、精神的にはしっかりとした上昇志向を持ちたいと望んでいたし、当初は理想主義的に夢も抱いていた「警察官」という職業に絶望し、辞職して新しい道に踏み出そうともしていた。

 「罪には罰」ということで、彼のラストには「どうしようもない」ところもあるだろうが、わたしがいちばんこの本を読んで「やりきれない」のは、そのクラレンスが精神的支えとして求めたエドワードとの関係をつくることが出来ず、さいごにはエドワードはクラレンスのことを、「はっきりと、心の底から嫌っている」という認識に達してしまうことだ。
 つまり、わたしはこの本にクラレンスとエドワードとの「心のふれあい」の軌跡を読み、クラレンスの死などよりも、その「心のふれあい」がこわれてしまったことを悲しむのだ。

 ニューヨークの高級住宅街に住む、エドワードとグレタのレイノルズ夫妻の飼うプードル犬が、公園で行方不明になってしまう。同時に「あんたの犬を預かっている。返してほしければ1000ドルを公園に置け」との手紙が届く。手紙の通りにエドワードは1000ドルを公園に置いたのだったが、金はなくなり、犬は戻って来なかった。
 夫妻は警察に届け出たのだが、それを聞いていた若い警官のクラレンス・デュアメルは「どうせ署は本気で捜査しないだろうから、わたしが捜査してみよう」と、独断でレイノルズ夫妻に会い、おそらくはレイノルズ夫妻に強く惹かれる。
 一方でプードル犬を拉致した犯人は、思いのほか簡単に1000ドルが手に入ったので、レイノルズ家をもういちど脅迫しようかと考えることになった。
 「不審者」を探してパトロールしていたクラレンスは、偶然にも犯人にぶち当たり、「この男がレイノルズ家の犬を拉致した男だ」と知る。「犬はどこだ」と責めるクラレンスに、「男は姉のところにいる。姉との約束で、前と同じやり方であと1000ドル入手したら、その犬を戻すことになっている」という。もちろん犬は拉致してすぐに殺害されていたわけだけれども。
 ここでクラレンスはまず「大きな過誤」を犯す。すでにレイノルズ家のためにということばかりを考えていたクラレンスは、犯人を彼のアパートに残したまま、レイノルズ家に「あと1000ドル払えれるかどうか」を聞きに行くのである。なぜ犯人を署に連行しなかったのか。
 レイノルズ家ではクラレンスの言うように追加の1000ドルを前と同じに置き、みごと犯人に取られてしまう。犯人はクラレンスがアパートを出たあと、アパートから出てしまっていた。
 犯人はクラレンスが恋人のマリリンといっしょのところを見かけ、マリリンの住所を突きとめてマリリン宛てのいやがらせの手紙を出す。マリリンは当時のアメリカの反戦=反体制運動に影響を受けていて、そもそもがクラレンスが警官であることを嫌っており、そんな犯人からの手紙でクラレンスから距離を置く。
 犯人は別の警官によって発見、逮捕され、精神鑑定を兼ねた収容所へ入れられるが、すぐに収容所を出されてしまう。
 犯人に怒り心頭していたクラレンスは、マリリンの部屋からの帰りに偶然犯人の姿を見かけ、彼を追いつめて持っていた銃で彼を殴打する。翌日、犯人の死体が発見されるのだった。署ではクラレンスを「第一容疑者」としての取り調べが始まる。クラレンスはレイノルズ家をしばしば訪れ、自分のことを理解してもらおうとする。もう仲の醒めていたマリリンを説き伏せ、2人でレイノルズ家に泊めてもらったりまでするが。
 警察の取り調べは、エドワード・レイノルズやマリリンにまで及ぶようになるのだった。

 小説は三人称記述とクラレンスの一人称の内面の記述、それとエドワードの一人称内面の記述とからなり、そんなことからも作品の中でエドワードの存在、考えが重要であることが示されている(恋人であったマリリンの考えは、彼女の発言、行動によってしかわからない)。
 エドワードはさいしょはクラレンスを「まだ未成熟な青年だな」との印象を持つが、だんだんと自分を慕ってくるクラレンスに感情移入もし、彼の精神的支柱になることも辞さないつもりでいたように読める。しかし、エドワードも妻もマリリンも、ほんとうはクラレンスが犯人を撲殺したことを知る。
 エドワードがクラレンスを家に宿泊させ、そのあとに取り調べの警官にクラレンスを擁護する嘘をついたあと、妻に「人生で最大の過ちを犯してしまった」と語るが、妻は「それほどたいしたことではないわよ」と語る。エドワードは「クラレンスには妙なところがあるように思うんだ」とグレタに語るが、グレタは「どこが妙なの? 彼は逆上しただけよ」と言う。
 そのときにエドワードは、「グレタはわたしより多くのことを見てきたのだ。残忍な行為を。それは彼女の家族の身辺に迫った。たしかにそうだが、はたして彼女は冷静な殺人者を客として家に泊めたことがあるのだろうか? あるいは、ひょっとして家族のひとりがドイツ人の殺害者に対して同一手段で報復したことがあったのか? グレタは、当然のこととしてその話を聞いたのだろうか?」と考えるのだった。これは重たい考えだと思う。
 エドワードの妻のグレタはユダヤ系のドイツ人で、この小説の時制の1970年代から考えても、その幼少期にドイツで「ユダヤ人迫害」を間近に見てきた世代ではあっただろう。それゆえかどうか、グレタはクラレンスの精神のもっとも良き理解者であっただろうか、とも思う(彼女の「どこが妙なの?」という言葉)。
 わたしはここまでのクラレンスの行動を追ったストーリーを読み、このエドワードの考えを読んだとき、頭の隅が震える思いがした。ここで一瞬、1940年代のドイツが1970年代、反戦運動に燃えるアメリカに接続される、ということでもある(それだけではなく、人と人との「結びつき」のことでもあるが)。

 あとでいろいろとネットで読んで、英語だからアメリカでの感想だろうけれども、この作品はハイスミスの作品でももっとも人気のない作品のひとつ、なのだと知った。アメリカが舞台で、アメリカの警察制度への批判があるからだろうか?(もちろん、この『プードルの身代金』には、機能不全に陥っているアメリカの「警察組織」への批判にも満ちている~エドワードとクラレンスの関係を壊したのも、警察組織だともいえる~)。
 しかし別の記事で、いつもハイスミスの擁護者であるグレアム・グリーンが、この『プードルの身代金』を絶賛しているらしいことも知った。グレアム・グリーンは、この本は「ハイスミスの作品の中で最高かつ最も複雑なものの一つ」と指摘したという。そう。わたしもそう思う。うれしい。
 この本は、わたしには忘れられない読書体験になった、と思う。もういちどこの作品が再評価され、再刊されることはないものだろうか。

(翻訳についてひとこと)作品の中でクラレンスが恋人のマリリンを「バーグマン」の映画に誘うシーンがあり、「マリリンは<バーグマン>のファンで、今ちょうど新作が公開されている」ということなのだが、これは同じ綴りの「Bergman」から、「ベルイマン」と訳すべきだろう。まだ20代のマリリンがイングリッド・バーグマンのファンだということは考えにくいところもあるし、「反戦運動」にも参加するリベラルなマリリンのこと、「イングマール・ベルイマン」のファンだったのだろう。この時期のベルイマンは多作で、毎年のように彼の新作が公開されてもいた。正直、こういうところで、翻訳者の「知識」が試されるのだ(もう今は絶版の本、いまさら指摘してもしょうがないけれども)。