ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ディフェンス』 ウラジーミル・ナボコフ:著 若島正:訳

 1930年に刊行された、ナボコフの3作目の長編小説(ロシア語)だが、この邦訳は1964年にマイケル・スキャメルとナボコフ自身によって翻訳された「英語版」からの翻訳。ロシア語から英語への翻訳の段階でどういう変化、変更があったのかはわからないけれども、冒頭に著者による「まえがき」が付されたという変化は大きいだろう(この「まえがき」がまた、やっかいなのだけれども)。

 物語は主人公のルージンの生涯を追ったものだけれども、まずは主人公が父と同じ「ルージン」という姓で呼ばれることになり、彼がいささか驚いてしまうという場面から始まる。このあたりの「どう呼ばれるか」ということの背景はわたしにはよくわからないのだけれども、じっさいの主人公の名は小説の最終ページでようやく明かされる(ついでに書いておけば、主人公が結婚する相手の女性の名前は、最後まで出てこない)。
 小学校に通い始めた主人公はまったく周囲になじめず、いささか自閉症気味ではあるのだけれども、作家である父の開いたパーティーに招かれたヴァイオリニストから「チェス」というゲームの存在を聞いて興味を持ち、そのあとは叔母にチェスの駒の動かし方を教えてもらい、以後は雑誌や新聞のチェスのページでチェスのことを独学する。実は彼はチェスに関してすばらしい才能を持っていた(これはまさに「サヴァン症候群」なのではないかと思うが)。

 チェスの才能が外に知られるようになり、悪魔のようなヴァレンチノフという男が主人公のマネージャーとなり、主人公はチェスの世界を昇りつめ、グランドマスターと呼ばれる存在になる。しかし彼は人間的にはまったく未成熟なままで、いわゆる世間の常識的なふるまいもできないままだった。
 しかし主人公はあるトーナメントに出場したときにある若い女性と出会って強く惹かれ、彼女との仲を深めて自分からプロポーズをし、彼女も母親の反対を押し切って結婚を承諾する。

 そんなとき主人公はイタリアのグランドマスターのトゥラーティとの勝負を迎え、互角のまま進んだ対局のとき、異様な神経の高ぶりから気を失ってしまう。
 倒れた主人公は病院で療養するが、「チェスへの思いが彼の精神に悪影響を及ぼしている」と、じきに妻となる彼女らは彼の周囲から「チェス」を思い出させるものを消し去ろうとする。
 回復した主人公は彼女と結婚し、チェスのことは忘れて彼女との「ひきこもり」のような生活を送りはじめるが、それでもポケットの中に「携帯チェスセット」を見つけたり、映画を観に行くとチェスのシーンがあったりして、彼女には秘密にしてだんだんにチェスの世界にのめり込んでしまう。彼がひとりでいるとき、眠るときなどはすべてチェスの手のことばかりを考えて、それこそが彼には「リアルな世界」、それ以外の起きている時間などは逆に「幻の世界」だと思うようになっているのだ。彼にとって、「生きること」はチェスゲームと同価。チェス上での「対抗策(ディフェンス)」こそ、彼の生き方になっているのだった。そして、長らく会わなかったヴァレンチノフが彼の前に姿をあらわすことになる。

 主人公はあらゆるところに「チェス盤の格子模様」を認識してしまい、つまり自分がそんなチェス盤の上で生きているという思いに囚われているようで、そんな彼の行動、作品の展開の中にナボコフは「チェス・ゲーム」(もしくは「チェス・プロブレム」)の指し手を織り込ませているようなのだが、とにかくはチェスのこともほとんど知らずにぼんやりと読んでいるわたしには、そういうことはわかりはしない。ただ、主人公の妻が「外の世界」から徹底して主人公を守ろうとしているのは、つまりは主人公をチェスの「キング」の駒とした構成なのかとは思う。では主人公の妻は「クイーン」なのかというと、そこまでに動き回れる存在とも思えない。

 それでもやはり、主人公の妻がそんな子供のような主人公をいとおしみ、愛するさまには心を動かされるし、そんな妻にプロポーズをした主人公は、やはり強く妻を愛しているのだ。
 彼は終わりに妻に「唯一の出口だよ」「ぼくはゲームを放棄する」と言い、妻に手を差し出して「素敵だったよ」と言って妻の手に口づけする。
 その「素敵だったよ」ということばの奥深さに、わたしはつい涙をこぼしてしまうのだった。

 表面に読み取れるストーリーの裏に「チェス」の進行を隠すような、ある意味「メタ」な作品だとしたら、その小説的な「作為」として、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』や、ずっとのちの『青白い炎(淡い焔)』を思い出させられる作品なのか。
 また、前に読んだ『賜物』のような「人称の自在な変化」はないものの、この作品の冒頭あたりでは主人公の視点と主人公の父親の視点とが自在に入り混じる展開があり、わたしには面白かった。この1930年に、ナボコフはそんな「視点」でいたずらを仕込んだような、『目』という中編も発表していたのだった。