ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ロスト・ハイウェイ』(2007) バリー・ギフォード:脚本 デヴィッド・リンチ:脚本・監督

 この作品は、「小説」として発表されたのなら「面白い作品」だと思えたことだろう。しかしこの作品は「映画」であって、視覚的イメージは製作者によって限定されてしまっていて、描写出来ないはずのものを描写してしまっていると思う。
 小説とは「視覚イメージ」を伴わない表現で、その「イメージ」は読者にまかせられている。例えばトマス・ピンチョンの小説、例えば『重力の虹』などに描かれたイメージを読者が自分の脳内に思い浮かべようとしても、「それは無理だ!」と思うのではないだろうか。そして例えばウラジーミル・ナボコフの『絶望』や『目』といった作品の面白さは、それが「小説」だからゆえ、「視覚イメージを伴わない」がゆえの面白さであろう。
 もしもこれらの小説を「映画化」しようとするなら、原作を離れてその演出に大きな工夫を加えないと「映画」は成立しないことだろう。それは「映画ならでは」の、既成の映画にはない新しい演出を編み出すべきだろうとは思うのだが、残念なことにこの『ロスト・ハイウェイ』の作劇、演出には既成の映画を越えた「新しい演出」は見て取れないと思った。
 しかし、例えば先日観たコルタサルの『悪魔の涎』を映像化したアントニオーニの『欲望』では、逆に小説では読者に与えられない「視覚イメージ」を描くことで、成功していたとは思う。それは『悪魔の涎』で描写しようとしたのが「視覚イメージ」だったがゆえだと思う。

 もちろん、この作品でのファースト・シーンで「ディック・ロラントは死んだ」と語られた言葉が、終盤にその「ディック・ロラントは死んだ」という言葉を聴いた当人が語るとき、この映画の中の時間の「ループ」構造は理解出来るが、そのことはこの映画の主人公が映画半ばで唐突に「別人」になってしまうこととは別の問題だし、そのことは「ことば」の問題であり、この映画での「視覚イメージ」の問題とはまた異なる次元のものだ。
 パトリシア・アークエットが二役を演じるのはよくわかり、ある意味で監督の『マルホランド・ドライブ』の先取りとしての面白さはあるのだが、『マルホランド・ドライブ』では余計な説明なしで成功していたことを、この『ロスト・ハイウェイ』では意図せずともその演出の中に「説明」が入ってしまっている。そのことこそがこの作品の「失敗」の要因というか、「どうしたらこのストーリーを映像化出来るのか」という考察が足りなかったのではないかと思えてしまう。「わからない作品」というわけではないが、映画としての「面白さ」を感じることは出来なかった。それはつまり、「言語イメージ」と「視覚イメージ」との混同、混在ゆえだったのではないのか。

 ちょっと調べて興味深く思ったのは、この映画で謎の男(ミステリーマン)を演じているロバート・ブレイクは、2001年に現実世界で自分の妻を射殺したとして逮捕・起訴された。一度は「証拠不十分」で無罪評決を受けたが、死んだ妻の親族が「ロバートは殺人犯だ」と民事訴訟を起こす。その裁判の中でロバートは偽証していたことが暴かれて2005年に有罪判決を受け、罰金3000万ドルの判決を受けた。
 しかしその後ロバートは、妻を射殺したのはクリスチャン・ブランド(マーロン・ブランドの息子)だとして彼を告訴したという。ブランドは事件への関与を否定して黙秘権を行使し、真相は闇のままに終わったのだが、どこかこの『ロスト・ハイウェイ』を思い出させられるような話ではある。