ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ファウスト』(1994) ヤン・シュヴァンクマイエル:脚本・監督

 『ファウスト』というと、わたしはゲーテの戯曲を思い浮かべるのだけれども、そのストーリーをちゃんと知っているわけでもなく、ただファウストは死んだあとに自分の魂をメフィストフェレスに差し出す契約をし、その死の時に「時よとまれ、おまえは美しい」と語るのだ、みたいな漠然としたことを知ってるだけだ。

 このシュヴァンクマイエルの2作目の長編映画もやはりゲーテの原作に基づくものかと思ったが、実はそうではなく古くから演じられつづけていたチェコの人形劇の「ファウスト」をもとにしているのだ。Wikipediaをみると、ゲーテもまた子供の頃に旅回りの人形劇一座の公演で「ファウスト」を見て、この伝承ストーリーに深い関心を抱いていたのだという。
 その旅回りの人形劇団がチェコの劇団だかどうかはわからないが、チェコの各地で人形劇の人気が高まるのは18世紀ぐらいのことらしい。なぜチェコで「人形劇」が盛んなのかを書くと長くなるけれども、人形劇はチェコの重要な文化遺産であり、チェコには国立の「マリオネット劇場」もあり、プロ、アマを問わず民間の人形劇団の数も多く、なんと各家庭が人形劇用の人形を持ち、家庭内で人形劇を楽しんでもいたらしい。

 そういうわけで、チェコ人であるシュヴァンクマイエル、自分のアイデンティティー、自分の作品創造の源泉でもあった「人形劇」を自分の長編映画第2作に選んだようだ。それでその題材も、人形劇のレパートリーでは著名らしいこの「ファウスト」を選んだようだ。だからダイレクトにゲーテの『ファウスト』からの映画化というわけでもないようだけれども、映画のさいごのテロップにはゲーテの名も書かれている。チェコ語はわからないけれど、他に何人かの名と並記されていたところから、「参考にした」という意味合いかもしれない。
 ちょっとあとで調べてみたのだが、映画には「トロイのヘレン」が登場するが、それはゲーテの『ファウスト』だからこそ、でもあるみたいだ。

 この作品、とにかくはシュヴァンクマイエル流に「人形劇」と「現実の世界」とを入り乱れさせ、諧謔に富んだ新しいファウスト物語をつくり出したものだろう。
 しかし、突拍子もないことが次々と起こり、これは元の「ファウスト伝説」を知っている人ならば「ああ、このシーンは伝説のあの部分のことだ」とわかるのかもしれない。

 映画はプラハの地下鉄駅から出て来た主人公が、2人の男が歩く人皆に配っているチラシを受け取ることから始まる。そのチラシは(おそらく)プラハ市街の地図で、その中の一ヶ所が赤くマークされているだけのものだ。主人公は一度はそのチラシを捨ててしまう(同じものを受け取った他の人たちも、みんな捨ててしまっているようだ)。しかし彼が帰宅すると郵便受けにもまた同じチラシが。
 これも捨てようとした主人公だが、思い直してその地図の指し示す場所へと行ってみる。
 そこは廃墟のような建物だった。中へ入ってみると、部屋の床にガウンが置かれていて、壁の化粧台の前に付やはり置かれていた脚本を読む。「俺は世を捨て、黒魔術と錬金術に身を捧げる」。彼はファウストの舞台衣装を身に着け、ファウストのセリフを読んでいたのだ。部屋を出て別の部屋を覗いてみると、そこは劇場の舞台で、大勢の客が自分の方を向いているのだった。彼は衣装も鬘も脱ぎ捨てて部屋を出るが、別の部屋はまさに「錬金術師の実験室」のようで、大きなフラスコの中にホムンクルスが生まれようとしているのだった。生まれて急激に成長し、男はあっという間に骸骨になってしまったホムンクルスを破壊する。
 そこに天井から人間大の女性の人形が降りて来て、「ファウストよ、魔術から身を遠ざけて神学を続けなさい」と語る。次にやはり人間大の悪魔が登場し、「神学を捨てて黒魔術に身を捧げろ、そうすればこの世はお前の望むままになる」と語る。彼(ファウスト)はメフィストフェレスを呼び出し、「24年間はわたしの望みをすべてかなえたまえ、24年経てばわたしの魂は差し上げよう」というルシファーとの契約をする。
 一方、幕の開いたらしい舞台では道化の人形が登場し、ファウストの行動のパロディみたいな芝居をやっている。

 ファウストは建物の外に飛び出すが、そこで人間の足を新聞紙にくるんで持っている老人に出会う。いつしかファウストはまた建物の中にいて、再びメフィストフェレスがあらわれ、ファウストはルシファーとの契約を果たす。
 そしてファウストメフィストフェレスに、「俺が知りたいのは生命を支配する力だ」と聞くが、メフィストフェレスは「人間は言葉でしか認識できないから、それを知ることは出来ない」という。「では愛などの胸にたぎる言葉に出来ない思いは何なのだ?」と聞くと、「それは霧みたいなものだ」と。「では俺の胸の渇きは何だ?」「お前の渇きは傲慢の裏返しだ、上を見ず、人並みに生きろ」と。「宇宙の真理とは、お前が踏みしだいた草の葉一枚一枚にあるのだ」。

 このあたりで、道化が演じていた舞台はファウストをも交えて進行するようになる。道化はファウストの召使になる。
 これからも、脈絡がないような書くのも面倒なことがいろいろとあるのだが、いつの間にかファウストが思っていたよりもずっと早く契約の24年が過ぎ、魂を取られるのをおそれたファウストは契約書を焼き捨てて建物の外に逃げ出すのだが、建物を出るときに例のチラシを持って訪ねて来た男とすれ違う(今ファウストをやっているこの男も、この建物に入るときに走って飛び出して行く男とすれ違っていたのだった)。ファウストは外の道路に出たところで車にはねられて死んでしまう。老人がやって来て、ファウストの死体から足を抜き取り、新聞紙にくるんで持ち去って行く。それをチラシを配っていた2人の男が眺めているのだった。

 な~んてだいたいのストーリーを書いてしまったが、正直言ってストーリー展開はぶっ飛んでいて、「どういうこと?」という展開の連続ではある。この映画の面白さは何といってもたくさんの「人形たち」ではあるだろうし、ホムンクルスメフィストフェレスの場面で使われる「クレイ・アニメーション」の見事さではあるだろうか。
 人形たちは時に「お下劣」「悪趣味」でもあり、それはチェコで人形劇が生まれた背景の「支配者たちへの抵抗」という精神のあらわれでもあり、ストーリー展開と共に、シュヴァンクマイエルのいう「戦闘的シュルレアリスム」にぴったりな表現でもあっただろう。2回、3回と見返せば、もっと見えてくるものもありそうだが。