ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2022-09-09(Fri)

 朝起きてケータイをみると、英国のエリザベス女王が亡くなられたとの報があった。享年96歳であられた。つい先日までお元気そうな報道もあったが、たしか昨日か一昨日には担当医が「健康に懸念がある」と語られたと聞いたばかりだった。
 エリザベス女王は、もうわたしが生まれたときにはすでに英国の女王であられ、以後70年間ずっと、英国の王位につかれていたのだった。
 しかし、病に伏せっての闘病生活を経ての逝去ではなく、フッと、「もうわたしの役目は終わったのよ」みたいに逝かれたのは、こういう言い方は語弊があるかもしれないけれども「さわやか」な印象がある。わたしもちょっと、こういう「終わり方」をしたいな。

 テレビで報道をみていると、今月中にはもちろんイギリスの「国葬」が行われるということ。この「国葬」はもうあったりまえというか、当然ではあろう。一方のこの日本では月末に安倍元首相の「国葬」を行おうとしているわけだけれども、世界全体のことを考えても英国のエリザベス女王の「国葬」こそ重要であり、もう日本の安倍元首相の「国葬」など、スポイルしてしまっていい行事ではあろう。

 今日の天気予報は久しぶりに「傘マーク」はなく、どうやら雨には見舞われないわけだろうと、バッグから「折りたたみ傘」を出して家を出たが、勤務地の駅で外に出ると弱い雨が降っていた。ほんとうに、この頃の天気予報のアテにならないこと。

 今日もスズメたちは元気だった。信号機のところに2羽のスズメがとまっていて、互いにチュンチュンと鳴き声を交わしていた。

     

 いつもスズメたちが群れている芝生にも、けっこうな数のスズメたちがいた。この日は、スズメたちの近くにムクドリたちの姿は見えなかった。

     

 仕事を終えて帰るときもちょうど弱い雨が降り始めたところで、どっちかというと傘があった方がよかったな、という降り方だった。

 実は昨日、ネットの記事で今村夏子の新刊小説が出ていると読んだもので、今日は帰りに途中下車して駅前の本屋に立ち寄って買って帰ろうと思ったわけだったが、その書店へ行っていくら探しても、その今村夏子の新刊はどこにも置かれていないのだった。
 まあ「文芸書」なんか、棚に百冊も置かれていないような寂しい書店ではあることは承知していたが、「平積み」にもされてはいなかった。残念である。

 読んでいたポオの最後の作品、「ユリイカ」をどうにかこうにか読み終え、帰りの電車車中から、一昨日ゲットした「人と思想」の評伝「エドガー=A=ポー」を読み始めた。
 しかし、わずか2~30ページ読んだだけでも「ん?」と引っかかる箇所がある。まず「ヴァージル」という古代の詩人の名まえが出て来るのだが、「ヴァージル」とは当然「ウェルギリウス」のことで、「Vergilius」という表記を「英語読み」して「ヴァージル」と訳してしまう例は、過去にも出会ったことがある。しかしはっきり言ってそのことは著者の「文学的教養」のなさ、ということにはなると思う。「あらららら」という感じである(しかも、そのしばらく後にはちゃんと「ウェルギリウス」と記述されている箇所もあり、うがった見方をすれば、この本は著者が一人で書いた本ではないのではないか、という疑念がある。まあ30年以上前の本ではあり、著者もきっとお亡くなりになられていることだろうし、今さら言ってもしょうもないことだ)。
 さらにこの著者、その評伝のポオの生涯を語るにあたって、まるで「講談」のような調子で文を進める。例えばポオが「初恋の女性」と別れるとき、「しっかりと抱き合ってキスを交わすのだった」などと、まるで「見てきたようなウソ」を書く。「評伝」として、そういう方が面白いと思ったのかもしれないけれども、わたしはこ~ゆ~のは嫌いである。
 まあ、まだ読み始めたばかりだが、「むむむ」という感じの本ではある。

 夜になるとけっこう空の雲も薄くなり、月がしっかり見える空になった。実はこの夜は「中秋の名月」なのだという。いつの間に「中秋」になってしまったのか、という感覚はあるが、窓を開けて夜空を見上げると、まだかかっている雲のあいだに、真ん丸な月が見えるのだった。