もともと、ポオの生涯をもうちょっと詳しく知りたいという気もちから読んだ本ではあり、その先に彼の作品についての納得の行く「解明」があればいいな、というところだったのだが。
前半のポオの「伝記的記述」の部分、ポオの知らない部分を知れてよかったのだけれども、この著者の記述の、「ああ」とか「おお」という感嘆の多用だとか、「そこで彼女は涙を流したのであった」などという「講談的文体」には辟易したのは確かだった。
後半のポオの作品の解読は、ひたすらポオの「ロマン主義者」的側面のみを評価し、彼の詩作品に「プラトニズム」を読み取って賛美するのだけれども、例えば「推理小説の始祖」としてのポオとか、詩作品以外に見られるポオの「多様性」は基本無視し、どこまでもポオを「ロマン主義者」とするのである。
例えば「料理評論家」という人に某店舗のつくった「幕の内弁当」を差し出し、「評価して下さい」と申し出た際に、その料理評論家はその「幕の内弁当」の「玉子焼き」だけを食べて「これは世界一の玉子焼きだ!」と絶賛するが、それ以外の「鶏の唐揚げ」だとか「サバの照り焼き」「野菜の煮物」にはまったく手をつけず、そのまま残してゴミ箱に捨ててしまうようなものではないかと思う。
だいたいその賛美の仕方にしても、例えば19世紀、20世紀の世界文学への「影響」とか多少は語ってもいいように思うが、ボードレールのポオへの賛美にもほとんど触れず、せっかくの「ドイツロマン主義」から「フランス象徴詩」へのミッシングリンクとしてのポオの存在価値もわからないし、あの『モルグ街の殺人』などがどれだけの後継者を生み出したかなど、まったく触れることはないのだった。著者はただ、どこまでもポオ(の一部の作品)を賛美し続けるだけなのだ。
もっともっと、この本の文体、記述内容とか批判したくもなったのだが、もう書きはじめると「ぼろくそ」書くことになりそうなので、自粛。伝記的記述は了解したので、もうこの本にまったく用はない。ゴミ箱に捨てることにした(わたしは本をゴミ箱に捨てるなどということはやったことはない。この本がそういうことをやる「生まれて初めて」の本になるかと思う)。
しかしちょっと書いておくと、わたしにとって「エドガー・アラン・ポオ」という人は、そういう「ドイツロマン派」と同時代の「ロマンティスト」から文筆をスタートさせながらも、いつしか「科学的正確さ」へと姿勢が移行して行き、そこに「詩」と「科学」との分裂の中に生きた人ではなかったかと思う。おそらくその「分裂」は、彼の最晩年の論説『ユリイカ』で、ポオなりの「統合」をみせたと彼は思ったのではないかと思う(わたしは『ユリイカ』は評価しないが)。
そういうところでわたしは、ポオが「推理小説(探偵小説)」の始祖ともてはやされながらも、早い時期に「月世界旅行」の短篇も書いていたというのに「SF小説の始祖」にはなれなかったあたりが「重要」かとは思っている。
なぜ彼の「月世界への旅行記」はSFになれなかったのか? それはわたしの考えでは、つまりポオは「物語」を紡ぎ出すことにまったく関心を持たなかったからではないかと思う。その「月世界への旅」の記述は決して「冒険譚」にはならず、その当時考えられる限りに「科学的に正確」であることだけを目指したからだろう。
実は『モルグ街の殺人』にしても、それは「物語」ではなく、ただポオの興味はひとつの「謎」を提示して、その「謎」を自分の筆で鮮やかに「解明」するだけのものだったと思う。
このことで書きたいことは山ほどあり、そのあたりを知りたくってポオの「作品世界」への評価を読みたいとは思っていたのだが、この本には裏切られてしまった。
ただ、わたしがここまでにポオに惹かれるのは、彼の初期の唯一の長篇、『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』という、わたしにとっての「大傑作」があるからで、この作品で南太平洋を漂流するポオの魂を、まだまだ知りたいとは思うからではある。
やはりここでポオのことを忘れるのではなく、もうちょっと彼に関する本を読みたいとは思うわけだった。