ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『市(まち)の人々』トマス・ハーディ:著 森村豊:訳(ハーディ短篇集『月下の惨劇』より)

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 原題は「Fellow-Townsmen」。
 とは言っても、このストーリーの中心人物はバーネットという裕福な男で、バーネットの友人でそこまで豊かではないダウンという男と、ルゥシィという女性とがここにからむ。
 当初バーネットには裕福な家系の別の夫人がいたが、関係はうまくいってなく、結婚は失敗だったと思っている。あるとき旅の帰りにダウンと出会い、同じ馬車で帰路に着くけれども、ダウンの家が見えたとき、その窓からダウン夫人と3人の娘がダウンの帰るのを待ち受けているのが見え、ダウンの姿を認めると皆でダウンを迎えに出てくるのをうらやましく思う。そのとき、「本当は好きだった」ルゥシィのことを思い出し、ついつい会いに行くのだ。
 実はルゥシィはバーネットを憎からず思ってはいたのだが、バーネットには妻もあるわけだし、「もう会いに来ないでほしい」と別れる。
 妻とうまくいってないバーネットはダウンに相談し、ダウンは「ではわたしの妻をあなたの奥さんにあわせ、話をさせてみよう」となる。ダウン夫人とバーネット夫人は、ある昼下がりに一艘のボートにいっしょに乗り海に出る。ところが突風が吹きボートは転覆、バーネット夫人はかろうじて助かるが、ダウン夫人は溺死してしまうのだ。
 バーネット夫人はしばらくして家を出てバーネットと別居状態になる。バーネットの気もちはいっそうルゥシィに向かう。そんなとき、バーネットはルゥシィから相談を受け、自立するために家庭教師をやりたいと言う。
 妻を亡くしたダウンは3人の娘を育てるのに苦労もしていたわけだから、バーネットはルゥシィには「自分の紹介で」とは告げずにダウンに話を持って行き、つまりはルゥシィはダウン家の家庭教師になる。
 そんなとき、家を出ていたバーネットの妻が亡くなったとの知らせがある。しばらく時をおいて、バーネットはルゥシィに「今度こそ」と結婚を申し込みに行くが、ルゥシィはダウンと結婚する心を固めていたのだった。
 がっくりしたバーネットは、家も家財も売り払いどこかへ姿を消してしまう。
 二十余年が過ぎ、バーネットは町に戻って来る。ダウンは何年も前に亡くなっていて、3人の娘も嫁いでいたが、ルゥシィは存命だった。バーネットは「今からでも」とルゥシィと会い、またも求婚する。ルゥシィはそのときは受諾せずにバーネットを帰すが、あとで気が変わり「求婚を受けようか」と考える。バーネットが宿泊している旅館へ行くとすでにバーネットは町を出たあとで、その後二度とその町には戻らなかったのだった。

 ‥‥何だか、作者の作為ばかりが気になるというか、皆の行動があまりに作者の気まぐれによって動かされているようで、楽しく読めたわけではない。
 こうやってハーディの一冊の短篇集を読み終えたわけだけれども、たいていの作品の登場人物が「運命に左右される」わけで、その「運命」というものがどこまでもある種「気まぐれ」で、わたしには作品の成り立つ理(ことわり)が読み取れない思いがした。
 この『市(まち)の人々』にしても、バーネットのルゥシィへの執念がどこか滑稽というか、哀れというか、同情の気もわかないのだった。

 こういう短篇集を読むと、ハーディという作家はモダニズムのはるか以前、ディケンズとかサッカレーと同時代の作家だっただろうと想像したのだが、意外とそのもうちょっとあと、19世紀後半に作家活動をした人なのだった。スティーヴンソンやコンラッドと同時代の作家なのだが、スティーヴンソンやコンラッドのような、作品に対する「作家意識」は希薄というか、つまりはO・ヘンリーのような感じの、ストーリーテリングの妙で読ませるタイプの作家なのかと思う。わたしとしてはちょっと、残念ながら読書に割く時間を無駄にした気がする。