ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『皆殺しの天使』(1962) ルイス・ブニュエル:脚本・監督

 ひとつの「寓話(寓意)的不条理劇」という感じで、単に「不条理だね~」ということを越えて、いろいろとその「不条理」の意味合いを考えさせられてしまう(まあそこでブニュエルの術中にハマってしまっているとも言えるのか)。

 冒頭のタイトルバックの映像が「教会」であるところからも、ブニュエルは宗教に何か言いたいところがあるのだろうと想像しながら観始める。先に書いておけば、この映画の最終シークエンスはまさに「教会」が舞台になって、それまでの不条理劇を反復するわけだし、その「教会」の前のシーンでは市街での「動乱」の様子も捉えられ、ブニュエルの中ではこの作品のメインでの「ブルジョワジーへの風刺」と「教会への風刺」というのが一体となり、そういう意味では「民衆の怒り」と対になっていると見ることができるだろうか。

 メインのストーリーは、あるブルジョワの屋敷で夜通しのパーティーが開かれ、多くのブルジョワが客としてその屋敷を訪れることから始まるのだけれども、その前になぜか、この邸宅の使用人らは次々と仕事を辞め、屋敷を出て行ってしまう(そのとき、あとで繰り返される「反復」が最初に示されたりもするのだが)。残るのは執事ただひとり(この執事の存在が面白い)。
 パーティーはだらだらとつづき、客人らは次の夜明けになっても誰も帰らない。「もう帰ろうか」という人とかもいるのだけれども、けっきょく皆が居つづける。そのうちに、「あれ? 帰ろうと思っても外に出られないじゃないか?」ってことになるのだが、この流れの演出が実にみごとで、余計な描写を入れずにただいつの間にか、パーティーの客人が「出られない!」ということになってしまう。このあたり、いわゆる「パニックもの」みたいな描き方をしていないところが、この作品のまったく素晴らしいところ。ただ、飲む水がなくなってしまったので、壁を打ち崩して水道管を壊し、皆がわれ先にと水道管からの水を飲むのだが、「そんなことやるんだったら、ドアを壊して外に出ればいいじゃんかよ~!」という思考は、この作品には不在である。

 屋敷内の描写だけでなく、その外からも警官隊が何とか中の人らを「救出」しようとする描写もあるのだけれども、こっちも「ドアを壊す」とかするわけでなく、「どうしようもないね」というばかりである。

 どうやら何日も何日も皆は屋敷内に閉じ込められたままらしく、食べるものもとうになくなってしまうわけだけれども、ここでなぜか屋敷内には羊の群れが闊歩しておる。しかも一頭のクマも徘徊している。人々は羊を捕らえて食う(クマや、残った羊らはそのまま屋敷の中を徘徊しているが)。
 そして、ある女性が、「あのとき(閉じ込められる前)の全員の位置関係を再現すれば、呪縛は解けてわたしたちは外に出られる!」と気づく。
 ‥‥これは一種の「オカルト思考」というか、「グリム童話」の魔法の呪縛解きというか、ここでもこの作品の全編を支配するのは「合理的思考」ではないということが提示される。
 そういうところでは、この作品全体が「合理的思考」から外れたところで成り立っているわけで、例えば、途中のある女性と「手」とのまさにシュルレアリスム的展開からも読み取れるように、全篇がブニュエルの「反=合理的思考」というか、「シュルレアリスム的思考」によって組み立てられているとも言えるだろう。

 現代の映画では、こういう「非合理」な作品というのはなかなかに成立しにくいところもあるだろうけれども、わたしが最近観たなかでは、例えばクリストファー・ノーラン監督の『メメント』のような作品などにいまでもなお、このような精神が息づいているようにも思える。

 まだ、パーティーに参加した人たちのそれぞれの「関係性」とかをしっかり追えたわけでもなく、そのあたりを注視して観れば、また面白い発見もあることだろう(多少、今の段階でも思うところはあるけれども、まだ中途半端な視点なので書かないでおく)。