ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『贋作』パトリシア・ハイスミス:著 上田公子:訳

贋作 (河出文庫)

贋作 (河出文庫)

 先日ハイスミスの「リプリー」シリーズの第三作、『アメリカの友人』を読んで、次に押し入れにしまってあった第四作の『リプリーをまねた少年』を読み始めたのだが、ここでも第二作の『贋作』のことがたびたび語られもするので、やはり先に『贋作』を読もうと、本屋で探して買って読んだもの。

 やはりここに「リプリー」シリーズの原点があるというか、『太陽がいっぱい』で完全犯罪を成し遂げたリプリーはその後、どのような存在として生活していたのかというスタートがここにあるのだろうか。やはり『太陽がいっぱい』はあれ一作で完結している。ただ、この作品の書き出しのところではすでにリプリーはそんな「リプリー的」生き方にずっぽりと足を突っ込んでいるわけだし、第三作を読んだときに気になっていた妻のエロイーズとの結婚までのいきさつ、ロマンスとか期待したのだが、これまた、すでに結婚してパリ近郊のヴィルペルスという田舎にある邸宅で暮らしているところからのスタート。

 『太陽がいっぱい』が書かれてから、次にハイスミスリプリーを主人公にしたこの『贋作』を書くまでに15年経っているらしいのだが、ハイスミスは「またトム・リプリーを使ってみるのも面白いだろう」と、どこかで思ったのだろう。その、15年というギャップにかかわらず、この『贋作』は『太陽がいっぱい』から数年後、のことらしい。
 ここでのリプリーは、イギリスの画廊の2人のスタッフ、そしてバーナードという画家と組んで、すでに人知れず自殺したダーワットという画家(その作品の価格は相当なものになる)がまだ生きていることにして、バーナードがダーワットになりきって描いたその贋作を、美術市場に送り続けているのだ。この設定は「犯罪」としてユニークなところで、「詐欺」といえば「詐欺」なのだろうけれども、人を傷つけるとか麻薬を売買するとかの「凶悪さ」から距離があるというか、一種ソフィスケートされた犯罪という印象がある。これがひとつ、このシリーズの主人公のリプリーの「スマートさ」という印象を生むことになるのではないかと思う。
 しかし、かんたんにいえばその贋作がまさに「贋作」ではないかという疑惑が持ち上がり、リプリーがダーワットに化けて会見に臨むなどという(ちょっとどうかと思うような)展開にもなるのだが、まずはそのため、リプリーの家を訪ねてきてリプリーらのウソを暴いたアメリカの顧客マーチソンを、リプリーが殺害してしまう。そこに贋作を描き続けることやガールフレンドとの破局とかでノイローゼ状態のバーナードが来て、マーチソンの死体を隠す手伝いをする。
 ‥‥ま、書いているとキリがないくらいいろんなことが起こり、リプリーがバーナードに殺されそうになったり、ザルツブルグまで彷徨していったバーナードがリプリーの前で自殺したり、リプリーはそれを「ダーワットの自殺」と偽装したり、行方不明になったマーチソンの捜査でリプリーが警察にマークされたりと、いろいろいろいろと展開していくのである。

 『太陽がいっぱい』でも、読んでいて「それはないんじゃないかな~」ということがあったのだけれども、この『贋作』でも、「いや、それはいくらなんでも‥‥」とか、そりゃあグロテスクすぎる」みたいなことも起こる。正直、そういう「サスペンス小説」としてはひとつ「どうか」と思うところもあるのだけれども、しかし、この作品が輝いているのは、偽作者のバーナードの語る「偽作者」の心理、芸術家の心理の描写によってだと思う。
 これは、そう言ってよければ「純文学」的な描写というか、偽作者として終わるしかなかったバーナードという芸術家志望の男の、その内面描写のリアルさによってこそ、「読むに値する小説」となっているのではないかと思う。そしてその中に、いかにもパトリシア・ハイスミスらしくも、いわゆる通常の「モラル」というものが一片も紛れ込んでいない、ということこそ素晴らしい。