ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『エル・シド』(1961) アンソニー・マン:監督

 昨日観た『グレン・ミラー物語』(1954)からこの『エル・シド』までの数年間に、アンソニー・マンジェームズ・スチュアートとの西部劇やゲイリー・クーパー主演の『西部の人』など、10本の映画を撮っているのだけれども、どの作品も「Amazon Prime Video」で観ることが出来ないので、いきなりこの超大作である。
 この『エル・シド』の前、アンソニー・マンカーク・ダグラスが製作/主演の『スパルタカス』の監督に雇われ、1959年の初めには撮影も開始していたのだが、カーク・ダグラスアンソニー・マンの「会話よりも視覚を優先する」演出姿勢に疑問を持ち、彼を解雇したのであった。もちろん、このあとスタンリー・キューブリックが監督となるわけだが。
 このあと、アンソニー・マン叙事詩的西部劇の大作『シマロン』を撮るのだけれども、映画会社と考えが合わず、実はマンは途中降板している(作品はアンソニー・マンの監督作品とされているが)。

 それでアンソニー・マンはこの壮大な歴史ドラマ映画『エル・シド』の監督に雇われるわけだが、彼はこの映画のことを「スペイン西部劇だ」と言っていたらしい。
 主役の二人はチャールトン・ヘストンソフィア・ローレンに決まったが、チャールトン・ヘストンは前年に『ベン・ハー』に主演したばかりだったし、ソフィア・ローレンは当時最も出演料の高額な女優ではあった(アメリカ映画には、彼女はすでにけっこう出演していた)。当初はオーソン・ウェルズもオファーされていたらしいが、最終的に彼は外された。音楽は『ベン・ハー』も担当していたミクロス・ローザ
 撮影はほとんどがスペインでの屋外撮影で、最後の一ヶ月はローマのチネチッタ・スタジオで撮影されたという。70ミリ映画ではあるし、映画会社の入れ込み方がわかる気がする。アンソニー・マンも、「ヒット作を生む監督」と認められていたのだろう。

 この作品、プロデューサーのサミュエル・ブロンストンが当時の駐米スペイン大使に「スペインで映画撮影したら?」と勧められたことに始まるようだけれども、スペインのフランコ総統は自らをこの映画の主人公のロドリコに喩えており、ブロンストンはこの作品を撮ることで、そんなフランコ政権を支援したわけではある。
 なお、撮影の2日前になってソフィア・ローレンは脚本を読み、自分のセリフに不満を抱き、別の脚本家を呼び寄せて書き換えることになった。もともとこのロドリゴの物語はピエール・コルネイユの戯曲『ル・シッド』として著名でもあり、その『ル・シッド』のエッセンスを脚本に加えたらしい(アンソニー・マンの『秘密指令』で脚本に協力したフィリップ・ヨーダンも脚本を手伝った、という話もある)。

 物語は11世紀、ベン・ユーサフに率いられたムーア人の侵略に脅かされるスペイン。 若き勇将ロドリゴチャールトン・ヘストン)は、戦闘の末にムーア人大公らを捕らえるが、彼らを王に引き渡すことなく逃がす。これに恩を感じたムーア人らは、ロドリゴに「エル・シド」の称号を贈る。しかし、捕虜を逃がしたことでロドリゴは反逆者扱いされ、婚約者であるシメン(ソフィア・ローレン)の父親に侮蔑され、決闘の末彼を死に至らしめる。また王位継承の争いに巻き込まれて追放の身となる。婚約していながらも父親を殺され、いちどはロドリゴを憎んだシメンだけれども、ロドリゴの誠実さにふれて、行動を共にするのであった。

 この旅の途中でロドリゴはラザロに出会い、祝福を受けるが、いかにもこれは創作であろう。その先では少女に出会い、納屋に案内されて夜露をしのぐのだが、朝になって2人が戸を開けると、外には実に大ぜいの兵士らが待ち受けていて、ロドリゴエル・シドに従うことを誓うのだった。このシーンは撮影も素晴らしく、感動的だった。

 そしてその直後再びムーア人がスペインに攻め入り、スペイン滅亡の危機が訪れる。彼は祖国のために立ち上がり、バレンシアの地でムーア軍と闘うのである。

 とにかくこの作品、馬と人の物量作戦というか、ロケーションの規模に驚かされる。画面いっぱいに馬に乗る騎士、そして兵士が拡がっていて、カメラは横移動するのだけれども人も馬も画面から途切れることはない。「どんだけの人、どんだけの馬を集めたんだ」と呆れかえるが、これがまた壮大な戦いを繰り広げるのだ。矢は射られるし、投石器で炎に包まれた石(?)は飛んでくる。観ていても、そんな石が戦う人々の群れのど真ん中に落下するわけで、「あぶないやんか!」とハラハラしてしまう。あれでケガ人や馬のケガは出なかったのだろうか。
 クライマックスではムーア人のリーダーのベン・ユーサフが倒されて落馬し、何頭もの馬が駆け抜けるその馬の足元に転がるのだが、あれでよく馬に蹴っ飛ばされなかったものだと思ってしまう。
 今だったら当然、こういうシーンはCGとかVFX処理されるのだろうけれども、これがすべて「実写」なのだから恐れ入る。当時の「飛ぶ鳥をも落とす勢い」のハリウッドの力だろうか。
 かつての、フィルム・ノワールの頃のアンソニー・マンジェームズ・スチュアートと組んだ西部劇のアンソニー・マンの良さは希薄になった気もするけれども、もうこの時期、彼も「ハリウッドを代表する監督」の一人になった、ということなのだろう。

 ただ、「Amazon Prime Video」での配信、音楽などの「音」のボリュームに比べて、人の会話の音声が極端に小さく、「字幕」で観ているとはいえ、セリフが聴こえないと気色悪いのでテレビのボリュームを最大限に上げるが、それでもあんまり聞こえない。その代わり、音楽や物音になると異様なまでに大きな音になってしまい、「これはないよな~」と思ってしまったのだった。