ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ユージュアル・サスペクツ』(1995)ブライアン・シンガー:監督

 「カイザー・ソゼ」とはいったい誰か?っつう映画というか、この映画に出演しているケヴィン・スペイシーは、この2年後に出演した『L.A.コンフィデンシャル』でも「ロロ・トマシ」とは誰か?というポイントの役どころで、「謎の男とは?」という映画に出演するのがお好きなようだ。

 しかしこの映画、たしかに「カイザー・ソゼ」とはどんなヤツだろう?って気分で観ていて、つまりはこれは、「推理」へと観客を導くミステリー映画なのだろう、とは思う。しかし、この映画から「カイザー・ソゼとは誰だ?」ということを抜かしたとき、いったいこの映画には何が残るのだろう?とは思ってしまうのだ。
 う~ん、例えばポワロを主人公にした映画だとか、「推理小説」を原作とした映画というものもいろいろあるだろうけれども、そういう映画も単に「犯人探し」だけで終わるわけもなく、それプラス「映画として表現したいこと」を描くものだとは思う。先日観た、クリスティの原作をケネス・ブラナーが監督した『オリエント急行殺人事件』など、これはモロに「犯人が解ればいいというものではない」という「推理映画」だったわけだし、タランティーノの例えば『ヘイトフル・エイト』にしても、「タランティーノの世界観」というものが通底して存在するわけだったと思う。

 そういうことを考えた上でこの『ユージュアル・サスペクツ』を観るならば、これはただただ「カイザー・ソゼとは誰だ?」ということを描いただけの映画で、その裏側に何らかの世界を描いているわけでもないと、わたしは思った。
 そりゃあ、「冷酷で計算づくの天才的な犯罪者」としてのカイザー・ソゼ像というものはあるかもしれないけれども、彼の人間性について何かが描かれているわけでもない。観終わって「そうか、アイツがカイザー・ソゼだったのか?」となれば、それですべておしまい。ただただ「消費されるだけの映画」なのだと思った。

 まあそれでも、観ていて多少は「推理する楽しみ」はあったわけで、例えば映画の冒頭でゲイブリエル・バーンはその「カイザー・ソゼ」らしい男に撃ち殺されているのだから、あとで警察が推理するような「カイザー・ソゼ=ゲイブリエル・バーン」という答えは、しょっぱなから否定されている。
 唐突に、それまでこれっぽっちも登場していなかった人物が実はカイザー・ソゼだったということもあり得るけれども、それでは映画として面白くもなんともない。だから映画に登場している人物こそが、(死んだと思われていたのが実は生きていた、という掟破りでもない限り)カイザー・ソゼなのだろう。
 そうするとちょっと映画の中に踏み込んで考えてみて、警察に取り調べを受けているケヴィン・スペイシーか、途中で登場しなくなった「コバヤシ」(ピート・ポスルスウェイト)か「レッドフット」、さもなければゲイブリエル・バーンの恋人の「イーディ」、このうちの誰かだと考えるわけで、わたしはいっしゅん「イーディ」こそが「カイザー・ソゼ」か、とも思ったのだけれども、やっぱ女性ではないだろう。それに「レッドフット」も見かけがそのタマではないから失格。だから自然と「これはケヴィン・スペイシーピート・ポスルスウェイトのどっちか」ということになるわけだ。その上で「カイザー・ソゼの顔を見たものはいない」ということなのだから、だいたいの答えは出て来るのだ(ピート・ポスルスウェイトは皆にその顔を見せているわけだから)。
 まあ、そんなに一所懸命見ていなくっても、だいたいの推測は付くわけでした。

 それと、どうもこの映画、みんなが大好きな「伏線回収」の見事な例として評価されてるみたいだ。そんな、「回想シーン」だらけのこの映画で、「回想」を「現在」につなげるようなことをやらなければ、「何のための回想シーン」か、ってことであろう。そんなこと言い出せば、「回想シーン」のある映画というものはみ~んな、「伏線回収の巧みな映画」っつうことになってしまう。
 というわけで、昨日観た『切り裂き魔ゴーレム』の脚本の凝り方に比べて、わたしには、「面白い」などと言える映画ではありませんでした。