ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『籠の中の乙女』(2009)ヨルゴス・ランティモス:監督

 海外では、カフカ的な不条理な味わいの作品(現象)のことを「カフケスク(Kafkaesque)」と呼ぶらしいが、それならば、このミヒャエル・ハネケ的な味わいの作品を、「ハネケスク」と呼んでもいいような気がした。
 ここでは両親によって外の世界から完全に隔離された3きょうだいが描かれるのだが、その一般常識からかけ離れた生活のナンセンスさ、そんなルールをつくって押し付ける両親の理不尽な非人間性に、ハネケ映画で描かれる理不尽さと近いものが感じ取られた。

 登場人物はその家族の両親と、長男、長女、次女の5人、それとクリスティナという女性の、ほぼ6人だけ。子供たちの名前はないようだし、両親の名前も映画では語られない。
 父親はある工場の要職で裕福。郊外の広大な敷地とプールのある家に暮らし、敷地の周囲は「塀」で囲われていて、子供たち(皆、成人ぐらいにみえる)はその塀から外に出ないように「教育」されている。というか、親は「家の外の世界」は邪悪で暴力に満ちていると教え、子供たちは学校にも通わず、塀から一歩も外には出ないし、外の世界は子供たちの目に触れることはない。どうしても入って来る外の世界の言葉は、意味を変換して教えられる。例えば「海」は「ソファ」という意味であり、「電話」は「胡椒」だとか(「電話機」は親が隠し持っているのだが)。家の庭からは時に空を飛ぶ飛行機が見られるのだけれども、それは「おもちゃ」であって、たまに庭に落ちて来て子供たちのおもちゃになる(親がおもちゃの飛行機を投げ入れてごまかしているのだ)。
 どうやら両親は長男を事故か何かで失っていて、残った子らをそんな事故から守るために、今のように世間から隔離させているようだ。子供たちは自分たちは行けない塀の向こうに「長男」がいると思っていて、彼のためにお菓子などを塀の向こうへ投げてやったりしている。
 外の世界の「暴力」は、端的にはネコとして姿を見せるとされ、爪を立てられ噛みつかれ、食い殺されてしまうから、犬のように「ワンワン」と吠えて身を守ることが教えられる。いちど庭に現れたネコは、長男によって剪定バサミで無残に(暴力的に)殺されてしまう。
 父親は毎日工場へ車で出かけるのだが、子供らには「塀の外の世界へ出るには車に乗ってでなければならない」と教えている。

 長男の性欲処理のため、時に父親がクリスティナという女性を連れて来るが、そのクリスティナが外の世界のものを長女に与えることになり、家族の均衡は壊れ始める。
 クリスティナから入手した映画のヴィデオで「外の世界」を知った長女は、「外」へ行きたいと思うようになる。両親は「犬歯が抜けたときに塀の外に出ることが出来るようになる」また、「車の運転を学ぶことが出来るようになる」と教えているのだが、長女は夜のうちに父親の車のトランクの中に身を潜ませ、「外」へ出ようと試みるのであった‥‥。

 作品にまったく音楽は使われていず、ただ映画内で長男が弾く素朴なピアノ曲と、両親の結婚記念日に姉妹で踊るダンスの伴奏で弾かれるギター曲だけ。
 撮影も固定カメラの長回しで撮られたシーンが多く、その場合たいていは、途中で人物の首から上がフレームアウトしてしまう。総じて「無機質」な、感情移入を排した演出で、観ていても神経を逆撫でされるような不快感に囚われてしまう。そういうところから、わたしはミヒャエル・ハネケの映画を思い浮かべもしたかもしれない。

 奇怪なルールのもとで生活する人々を描いているということで、先に観た『ロブスター』と共通するようにも思ったが、この映画は父親の支配による「子供たちへの精神的暴力」として、ありえないわけでもないというリアリティを感じたりもする。先日も、アメリカだったかである男が少女を誘拐し、辺地の納屋の中に14年間も監禁していたという記事を読んだばかりだったが、この映画の中のきょうだいも、両親によって監禁されているのと同じだと思う(特に長男は精神的に発育不全というか、幼児性が露わのように思えた)。
 ただ、『ロブスター』が人々の管理という面でスキだらけだったという印象があったように、この映画でも同じようなスキはいろいろとあったようで、「リアリティ」という意味では疑問もあるところ。でも、「あんなところがあった」とか不快な細部があれこれあって、ちょっとクセになりそうな映画だ。

 両親の結婚記念日に姉妹が両親の前でダンスを踊るのだが、そのダンスが「ゆるゆる」というか、観ていても気色の悪いダンスで、わたしはこのシーンには惹かれた。DVDのパッケージにもこのシーンが使われているが、ちょっと『シャイニング』のあの「双子の姉妹」を思い浮かべもする。