ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『熊 人類との「共存」の歴史』(2005) べルント・ブルンナー:著 伊達淳:訳

 7月にいちど読んでいた本だけれども、その頃は国内で「熊問題」も今ほどではなかったし、わたしもこの本の内容をまるで思い出せなかったりしたので、また読んでみた。
 けっきょくこの本は、神話、歴史、動物学に社会学などのさまざまな視点から、ヨーロッパ、アメリカ、アジア(それ以外の地域に熊はいない)での熊と人間との関係を探る、といった本なのだが、本として「さまざまな事象の羅列」という印象が強い。
 著者の姿勢は、エピローグのさいごの文章にあらわれていると思う。

 表情や仕草に親しみを覚える人間が熊に魅力を感じることはあっても、熊が人間に興味を持つことはない。しかし熊の側に興味がないからといって、われわれが熊に対する敬意や好奇心、関心を失う必要もない。人間が熊と共存できる方法をどうにか工夫できると信じたい――それでも熊とはそれなりの距離を置いて付き合うべきだということを本書で明らかにできていればと思う。熊を人間になぞらえて捉えることは完全にはやめられないだろうが、熊とは人間に似てなくはないにしても森の中には彼らの生活があって、人間と距離を保って暮らすことを願っている動物だと考えることはできるはずだ。気落ちする必要はない。熊としてもそれはどうすることもできないのだ。熊の生態に干渉しないことでしか衝突は避けられない。それさえ守っていれば、あとのことは大きな夢として抱き続ければいい。

 ‥‥正直、よくわからない文章で、いったい誰が何に対して「気落ちする必要はない」と考えるのだろうか。「熊との共生を考える人」が、「熊は人間に距離を保って暮らそうとしている」ということに気落ちする、ということなのか。
 「熊としてはどうすることもできない」というのはその通りだろうが、今の日本で起きている「熊問題」とは、熊の方が人間の生活に干渉するようになっていることが問題なのであって、「熊の生態に干渉しないことでしか衝突は避けられない」ということではないだろう。わたしたちは今、いやおうなく熊の生態に干渉しなければならなくなっているのだ。
 著者は「あとのことは大きな夢として抱き続ければいい」と書かれるが、著者の抱く「大きな夢」とはどういうものなのか、この本全体を読み終えてもしかとはわからないのだ。

 この本に書かれていたことで、人間の熊に対する行為として批判されるべきことは、ひとつには「レジャーとしての熊猟」。もちろんこのことは今は世界中で禁止されているはずだが、「地域における熊の数の増加」の調整のための猟は世界中で行われている。
 もうひとつは「サーカスで見せる熊の芸としての虐待行為」。サーカスの問題は「動物園」という問題をも含むことになるが。これは過去において熊にサーカス芸を仕込むためにどれだけ暴力的なことを行っていたか、という実例がいろいろ書かれていた。よくサーカスの熊の芸であった「踊る熊」などという見世物は、熱く熱した鉄板の上に熊を乗せ、片足ずつでないと長く足を着けないような状態にして仕込んでいたのだという。さすがに近年ではそのようなしつけはやられていないとはいえ、まだ最近までサーカスに熊のみならず象やライオン、サルなどの動物を出演させることは継続していた。しかし今では数多くの国や自治体で、サーカスに動物を出演させることを禁止するようになっている(日本はまだそうなっていないようだが)。

 ひとつ、先日の日本での「OSO18」問題とそっくりなことが2006年のドイツで起こっていたらしいことが書かれていた(この本のドイツでの刊行が2005年のはずなので、なぜ2006年のことが書かれているのか疑問はあるが)。
 それは、一頭の熊が数ヶ月にわたってバイエルン地域に出没し、村にも下りてきて家畜らを屠っていたというもので、まさに日本の「OSO18」とそっくりである。「ブルーノ」と名付けられたその熊はドイツ中の話題になったが、けっきょくハンターに仕留められた。そうすると日本と同じく「なぜ殺した」「山奥に帰せばよかったではないか」などという意見が噴出。そもそもブルーノはイタリア経由でドイツに来た熊の子だったため、イタリアも巻き込んで国際問題にもなってしまったという。
 著者は書く。「いつの間にか熊は、矛盾する人間の根深い衝動がぶつかる地点に存在させられてしまっている――予測不能の危険から守られていたいという欲望と、自然を壊したくないという願望。」「しかしどれだけ矛盾しているように思えても、熊との共存を考えるなら、地域の人々が自分たちよりも大きな肉食獣と生活環境を共にするということに本気で取り組まない限り、どんな手段も成功しない。」
 それはそうだろう。しかし今は(特に日本では)「熊との共存」を望まない人が増加し、「熊との共存」など幻想だと主張している。そういう人たちの前で、(悲しいことだが)いささかこの本は無力のようには思えてしまう。