ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2023-09-30(Sat)

 この日は土曜日で、土曜日の朝はFМの「ウィークエンドサンシャイン」を聴くことから始まる。今日はプリテンダーズから始まってパブリック・イメージ・リミテッドとつづき、カザフスタンの音楽なども聴けて楽しかった。USBに毎週録音してあるわけだからあとで聴こうとしたら、これが録音されていないのだった。
 USBにはまだまだ余裕があるはずだし、いちおうコンポにセットされているときには録音しているフリをしてピカピカと点滅していたのだけれども、これがどうもUSBの容量いっぱいになっていたらしい。っつうか、このUSBメモリーはAmazonで買ったのだけれども、まったく聞いたこともないメーカー名で、すっごく安かったのだった。
 これはつまり中国製の粗悪品で、書かれているメモリー容量にははるかに届かないシロモノなのだ。Amazonにはこういう粗悪品もはびこっているわけで、購入するときにはやはり、自分の知っているブランドの製品を買わないとダメなのだ。
 まあそれほど多くのデータ、大きなデータの保存でなければ、十分に間に合うことは間に合うのだが。

 わたしの夕食はまた、「ダブリン・コデール」をつくった。「材料の皮をむいて、ウィンナーには切り込みを入れてぜんぶ鍋に入れ、コンソメといっしょに煮込む」だけなので、つくっていても「あれ? こんなに簡単なんだっけ?」という感じ。
 今日はちょっと薄味になってしまったけれども、使ったウィンナーの数が少なかったか、ウィンナーに入れる切り込みが少なかったせいかもしれない。
 しかし、これから季節は涼しくなるわけで、この「ダブリン・コデール」はヘヴィーローテーションになってもらいそうな気がする。

     

 ニェネントくんは毎日の夕食に「下剤」をまぜているのだけれども、やはりその成果はかんばしくなく、また3日ほど「お通じ」がない。このごろはリヴィングからキッチンへの入口のところで「ぐた~」として横になってばかりで、以前はわたしが近づくとふっ飛んで逃げて行ったのだけれども、今は横になっているニェネントをわたしがまたいでも反応しないというか、そのまんま寝転がっている。
 そういうこともまた「お通じ」がないせいなのかも、などと考えてしまうのだけれども、あとわたしの出来ることとして、ネコ用の「乳酸菌サプリ」を買って、食事にまぜてあげようかと、Amazonで検索して注文した。USBメモリーのような「粗悪品」でないことを祈る。

 先月、北海道のみならず全国で話題になったヒグマの「OSO18」の駆除について、その後「なぜ殺したのか」という苦情も相次ぎ、その「OSO18」を射殺したハンターも特定され、その方に対して「誹謗・中傷・苦情」が浴びせられているらしい。
 こういう話を聞くと、7月に読んだ本『熊 人類との「共存」の歴史』を思い出すし、同時期に観たヴェルナー・ヘルツォーク監督のドキュメンタリー『グリズリーマン』のことも思い出してしまう。

 熊という存在が人間を襲う存在であるにもかかわらず、そんな熊のことを「かわいい」と思ってしまうことの背後には、実は人間らが熊を「自分の都合のいいイメージの動物」へとつくりかえた歴史があるわけで、そんな自分が持つ「熊」という動物へのイメージを問い直すことも大事だろう。
 「動物愛護」という観点から「どんな動物も人が殺していいわけではない」という考え方があるのだろうが、では「酪農牛」が次々にヒグマに襲われて殺害されるとき、「ヒグマを殺すべきではない」として酪農牛が殺されるのを傍観すべきなのか。
 「もともと動物らが平和に暮らしていたところに後から入り込んだ人間がいけない」という考え方があり、先日ネットで読んだコメントで「人間は皆都会に住めばいいのだ」という極端なものがあったが、「人間は自然を壊す存在だ」という考えを突き詰めればそういう考えになるわけだろう。そこには「人間も自然の中で生きる存在である」という視点が欠如している。
 もちろんかつては人間は自然を力づくで征服しようとし、例えばオーストラリアにさいしょに移住した移民らは、コアラであろうがカンガルーであろうがその土地に棲む生物を「皆殺し」にしようともしたわけだ。
 そんな残酷で野蛮な時代から二百年以上の時を経て、人間は「自然」と共生する道を模索している。もちろんヨーロッパの多くの地で「狩猟」によって熊は絶滅してしまったが、ではその「熊」のことを考えて、今どのようにして人と熊の共生は成り立つのか。もちろん「人」からの視点だけで対処することはできないし、一方で「熊」からの視点だけで対処することもできないだろう。そう思っている。このことを書き出してもかんたんには結論も出ないが、今日はここまでで。