ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『メイスン&ディクスン』(上) トマス・ピンチョン:著 柴田元幸:訳

 主人公のチャールズ・メイスンとジェレマイア・ディクスンとは「実在の人物」で、日本のWikipediaにも、彼らが測量して引いた「メイソン=ディクソン線」の項目はしっかりと存在している。この「メイソン=ディクソン線」はつまり、けっきょくはアメリカ合衆国の「北部」と「南部」との境界線となる。

 この上巻では彼ら二人の出会いから、さいしょの共同作業である喜望峰での「金星の日面通過」(1761)の観測、そしてアメリカへ渡っての「メイソン=ディクソン線」測量作業の途中までが描かれている。
 って書くと、その「金星の日面通過の観測」、「メイソン=ディクソン線測量作業」というクライマックスに向けてストーリーも盛り上げられると思われそうだけれども、そういう感じではなくって、どこまでもストーリーの細部にこだわるというか、読んでいてもその「金星の日面通過観測」や「メイソン=ディクソン線測量作業」そのものがストーリーの「クライマックス」と思える感じでもない。

 例えていうと昔の「新聞小説」ってこういう感じだったのかというような、短い「小話」のようなエピソードの並列。つまり、「大きなストーリーの流れ」というものが存在しない(と思う)。読んでいても2,3ページごとに話はちょっとした盛り上がりをみせ、場合によっては解決も見ないままに次に進んでしまう。もしも「大きなストーリーの流れ」といえるものがあるとしたら、それはこの本で書かれる「ストーリー」よりももっと大きな、「現実の歴史」のようなものではないかと思う。そういう「現実の歴史」に対して、作者のピンチョンはまさに大掛かりな「換骨奪胎」を行っている、といえばいいのだろうか。
 作品の中で「説明的な描写」もほとんどないわけで、そんなメインの(と思われる)「金星の日面通過の観測」や「メイソン=ディクソン線測量作業」についての説明もセリフの中でいくらか語られる程度だし、知らないうちにそういう作業も始まってしまっていて、終わってしまっている。
 とにかく作品全体でとてつもなく登場人物も多いのだけれども、たいていは「そのとき一瞬」しか登場しない人物ばっかり。そんな「その場かぎりの」登場人物が一時(いっとき)その場の主人公のようにふるまい、その場のストーリーを盛り上げるが、いちど姿を消してしまった人物はたいていは二度と登場しないし、そのとき盛り上がったストーリーも次につながってくるわけでもない。

 じゃあ「しょうもない小説」ではないかというと、決してそんなことはなくって、例えていえばヒロエニムス・ボスの『快楽の園』みたいに、画面のあちこちにさまざまな「それ自体で面白い(興味深い)」細部が積み重なっていながらも、全体、一枚の絵画として唯一無二の世界を築いている、ああいう世界を思い浮かべればいいのではないかと思う。

 この上巻では、それでもストーリーに通底する主題、「現実の歴史」として18世紀の「奴隷制」、そしてアメリカでの「先住民抑圧(虐殺)」などという「陰の部分」がうかがい知れる。特にこの上巻のラスト近く、主人公のメイスンとディクスンとがそれぞれ、住民らに「隠れた観光地」にされている「先住民一族の虐殺現場」を訪れたときの、それまでにないシリアスで重たい描写には心打たれもした(この少し前まで「時計を呑み込んでしまった男」の、この上巻の中でもいちばんにアホらしい話が展開していただけに、なおさら心動かされる)。
 直接に「奴隷制」を書いても、例えば登場してくるベンジャミン・フランクリンの奴隷が主人のベンジャミン・フランクリンよりもはるかに聡明だったりして、また笑かせられるのではある。

 それからあと、わたしはその昔、イングランドスコットランドの民謡、バラッドが好きで、そのあたりの解説文も読みかじっていたもので、この本に出てくる「ジャコバイト」や「ジョーディー」などの言葉にもなじみがあり、読み進める助けになったのだった。昔の趣味に助けられた。

 とりあえずはまだまだようやっと「半分」。上巻の終わりのところの「恋する機械仕掛けの鴨」の話の行方は、いったいどこへ行ってしまうのだろうか。楽しみではある。
 「ちゃんとした感想」は全部読み終えてからになるが、「ちゃんとした感想」というものがこのわたしに書けるものかどうか、今から心配ではある。