ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2023-05-24(Wed)

 夜中にトイレに行きたくて目覚めると、わたしのお腹の横のところの布団の上でニェネントくんが寝ていた。昨夜はけっこう気温が下がったからだったのかわからないが、うれしいことだ。ただわたしがトイレに起きるとニェネントくんも布団から降りてしまうのが残念だ。
 それでもういちど寝て、朝のいつもの目覚めの時間に目が覚めると、わたしの肩の横、目の前でまたニェネントくんが寝ていた。このところ、ニェネントくんとわたしとの距離が縮まっているような気もする。こういう状態がずっと続くといいと思う。それにはわたしがニェネントくんを無視せず、いつもかまってあげることを心掛けるようにすることだ。まずはニェネントくんがわたしの近くで横になっているとき、おでこやあごの下をなでてあげること。

     

 先日買った『サーカスの子』を読んでいるが、むかしはサーカスで芸を見せる動物の数はとっても多かったらしい。戦時中には全国に多くのサーカス団があったが、ライオンを飼っていたサーカス団はゾウを飼っていたサーカス団よりも多かったらしい。しかしその戦争が日本に不利になって来ると、ライオンはみんな処分されてしまったようだ。
 また、サーカスで飼育される動物の寿命は短かく、普通60年の寿命を持つゾウは、サーカスでは30年ぐらいだったという。動物愛護団体が「サーカスの動物出演」に反対したのにも理由がある。
 そういうので先日観た映画『EO イーオー』のことを考えてしまうが、あの映画でのロバのEOはサーカスのカサンドラという女の子といい関係で、サーカスから出されたあとの生活はカサンドラのように愛してくれる人もなく、サーカスにいたときよりも苛酷な生活になったわけだ。EO自体が「ここはイヤだ」と逃げ出したところもあって、人間は「動物を長生きさせたい」と思っても、「動物の気もち」はわからないから。
 特にロバなどは野生のロバというのももう世界のごく一部にしか棲息していないし、映画『EO イーオー』でも描かれたように、サーカスでなくっても人間の飼育下で生きて行くしかない。他の動物にしても、いちど人間に飼育された動物を野生に戻すのはむずかしいだろうし、「動物愛護」とな何なのかと、あらためて考えてしまった。ちょうど今読んだ記事で、動物園の動物には大ぜいの観客が来るのを喜ぶ動物と、そうではない動物とがいるということだった。まあ当たり前といえば当たり前のことだろうけれども、動物の行動を追いながらそういうことを種類ごとに調べた結果、ゾウやペンギンは客が来るとテンションが上がって活動的になり、逆にキリンやサイらは客の存在が悪影響を与え、食事量も減って「孤独時間」が多くなるのだという。むずかしいものだ。

 「入管法改定案」に関して、政府は法改定が必要な根拠として、難民審査参与員の発言「難民を探して認定したいと思っているのにほとんどみつけることができない」というのをあげているらしいが、このことに関して参議院法務委員会が「参考員質疑」を行い、参考人阿部浩明治学院大教授は「ほとんどいないということは全くない」と疑念を呈したという。
 阿部氏は「(参与員の間で)国際基準を踏まえた難民認定の手法が共有されていないため、難民を難民として認定できない」と述べ、「国際人権法の観点からすると、あらゆる人に人権があり、それを認める必要がある。原則は身体の自由があるのに、なぜ身柄拘束の必要があるのか。誰でも彼でも収容していいわけではない」とも語ったという。
 そもそも入管の収容施設は中国のウィグル人収容所と同じく「人権を無視して身柄を拘束する施設」で、国連人権理事会が「国際人権基準を満たしていない」として、抜本的な見直しを日本政府に求めたのだが、政府はその見解に耳を傾けるどころか「一方的な公表に抗議する」としたのである。
 これは中国が「G7広島サミット」での共同宣言を「内政干渉だ」とはねつけたのと同じであり、この問題では日本は中国と変わるところはない。ネットのコメントで「ウィグル人問題」で中国を批判する同じ人間が、日本で入管の「入国者収容施設」に収容されている人々の方を批判するという「ダブルスタンダード」がまかり通っている。

 この日はクリント・イーストウッド監督の『リチャード・ジュエル』を観た。ヒッチコックの『間違えられた男』のような心理サスペンス的展開でもあり、かなり面白かった。