ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ムーンライト』(2016) バリー・ジェンキンス:脚本・監督

 昨日観た『コーダ あいのうた』ではわたしの知っている、好きな歌がいろいろ使われてもいて、それで感情移入の度合いも高くなったのだけれども、今日観た『ムーンライト』でも、映画の流れの中で大きな意味を持つ曲がわたしもけっこう好きな、バーバラ・ルイス(Barbara Lewis)の「ハロー・ストレンジャー(Hello Stranger)」という曲だった。
 映画の内容にしっかり絡んだ歌詞の曲でもあり、リフの部分の「It seems like a mighty long time」のところは自分でよく記憶していたこともあり、聴いていて涙がこぼれてしまった。

 主人公はシャロンというアフリカ系の男性で(この映画に登場するのはすべてがアフリカ系の人々ばかりであった)、彼は少年期には「リトル」と呼ばれ、友人のケヴィンには「ブラック」と呼ばれる。この映画は3部構成で、第1部が「リトル」、第2部が「シャロン」、そして第3部が「ブラック」とタイトルされていて、シャロンの少年期、ハイスクール時代、そして成人したあとと、シャロンの成長に沿った構成になっている(各部の間には、時間的にもけっこう大きな断絶があるけど)。

 第1部でシャロンが出会う重要な人物が地域のヤクの売人のフアンで、父親がなくヤク中で売春もやっている母のもとで虐待され、少年たちのいじめの対象になっていたシャロンを自宅に連れて行き、ほとんどシャロンの父親代わりのように、大事なことをシャロンに教え伝えるのだった。
 このとき、フアンがシャロンの心を開かせ、海で泳ぎを教えるシーンとかは素晴らしかった(このフアンを演じたマハーシャラ・アリという人はこの役で「助演男優賞」を得ている)。
 おそらくは周囲の少年らから「おかま」とからかわれていたらしいシャロンは、フアンに「おかまって何のこと?」と聞き、フアンから、それは「ゲイ」をバカにした言い方だと教える。さらにフアンは「もしもゲイだとしても、人におかまと言わせるな」と諭す。シャロンは「自分で(ゲイだと)わかるの?」と聴くが、フアンは「今すぐわからなくていい、そのうちな」と答える。このあとにシャロンはフアンに「薬を売ってるの?」と聴き、「ああ」と答えられると、「ママは薬をやってるよね?」と聴く。苦渋の表情を浮かべたフアンは「ああ」と答えるが、シャロンはフアンの家を出て行く。

 第2部はハイスクール時代だが、シャロンは彼のことをいつも「ブラック」と呼ぶケヴィンとは仲がいい。しかしある事件でシャロンは少年院へ入れられることになる。
 シャロンはフアンに聞いた話から、自分が「ゲイ」と言われていること、じっさいにそういう「ゲイ」への親和性は持っていると思うようになっていたのだろうか、そしてケヴィンもまた、「バイセクシュアル」なところがあったようで、二人で行った夜の海辺で、一種「一線」を越えてしまうのだった。

 第3部。それからずいぶんと時が経ったようで、シャロンはそれまでのひ弱そうで細身の体型から、まるでかつてのフアンのようながっしりした体格の大男になっており、まさにフアンのようにヤクの売人をやっている。そんなとき、シャロンの携帯にケヴィンから久しぶりの電話があるのだった‥‥。

 映画は各部ごとに撮影スタイル、そして画面の色調を変えており、そのことも映画の内容にフィットしているように思えた。
 第1部では色調はナチュラルだが、第2部ではコントラストが増し、暗い色がより色濃くなったようだった。そして第3部では色調に幅を持たせたみたいで、同じアフリカ系の人たちでも肌の色が異なっているのがわかるようだった。
 撮影は第1部で手持ちカメラが多用され、グルグルと人物のまわりを回るようなギミックな撮影が多かった。それが第2部では被写界深度は浅くなり、いつもシャロンを中心に、それもシャロンを後ろから追うような撮影が増える。特にこの第2部は、映画はどこまでもシャロンの心情に寄り添うような演出で、第3部へ向けての「事件」へと進む。

 第3部のケヴィンからの電話で、ケヴィンもまた刑務所に入り、その保護観察中に料理を学び、今は町のレストランで働いているという。レストランに来た客がジュークボックスである曲をかけ、その曲でシャロンのことを思い出して会いたくなった、オレの料理を食べに来てくれ、と語るのである。
 シャロンはケヴィンに会いに行く前に、更生施設に入所している母に面会に行き、母の「愛している」との言葉を受けとめる。
 なんだかこのあたり、そんなに特出した演出でも感動させるセリフでもないと思ったけれども、登場人物に寄り添った丁寧な演出であるせいか、やはり観ていて涙してしまうのだった。

 そしてシャロンはケヴィンが店を仕切るレストランへ行き、客がいなくなるまでゆっくりとしてケヴィンと話する。いろいろと身の上話をして、ケヴィンが「この曲を客がかけたんだ」というのが、さいしょに書いたバーバラ・ルイスの「ハロー・ストレンジャー」という曲だった。
 もうわたしはこのあたりでたまりかねて、涙がボロボロこぼれて来てしまって「お手上げ」だったのだが、ここにはもう書かないけれども、映画はさらに続く。

 ある意味でこの映画は、シャロンという男が「自分はゲイである」と意識して生きることの、「純愛物語」みたいな面もあると思った。それは第1部から第3部までを通じて、「自分は誰なのか」という自分自身に向けた「問い」に答えた、ひとりの男の「自己実現」の物語でもあったと思う。
 これはもう、忘れられない作品になった。