ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ダブリンの人びと』ジェイムズ・ジョイス:著 米本義孝:訳

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

 ジェイムズ・ジョイスの作品で最初に出版されたのは詩集『室内楽』(1907)だけれども、小説作品としてはこの『ダブリンの人びと(Dubliners)』(1914)でデビュー、ということになる。この作品集の出版までにも紆余曲折があり、ジョイスが最終的にダブリンを離れる理由にもなっているようだ(?)。収録作品はだいたい1905年までには書き上げられていたらしいが、ラストの「死者たち」は1907年に書かれた。収録作品全15作は以下の通り。

●「姉妹」(The Sisters)
●「ある出会い」(An Encounter)
●「アラビー」(Araby)
●「イーヴリン」(Eveline)
●「レースのあとで」(After the Race)
●「二人の伊達男」(Two Gallants)
●「下宿屋」(The Boarding House)
●「小さな雲」(A Little Cloud)
●「対応」(Counterparts)
●「土」(Clay)
●「痛ましい事故」(A Painful Case)
●「委員会室の蔦の日」(Ivy Day in the Committee Room)
●「母親」(A mother)
●「恩寵」(Grace)
●「死者たち」(The Dead)

 読んでいると、「こういうシチュエーションは『ユリシーズ』にもあったな」とか、「この場所のあたりは『ユリシーズ』にも登場していたな」とか思い当たることが多かった。そもそもが背景にアイルランドの歴史、イギリスとの関係やカトリックプロテスタントの対立があり、国民党のパーネルのことも何度も出てきたから、いい加減に憶え込んでしまった。
 トータルに1900年代初頭のダブリンの空気を、その町の景色、そしてそこに住む人たちの点景から浮かび上がらせるというのは、やはり『ユリシーズ』に通じるものがあり、ジョイスがこの連作短篇を書き継ぎながら考えを『ユリシーズ』へと発展させたことは読んでいてもよくわかる気がする。

 特に最後の、ちょっと長い作品「死者たち」の構成、展開には心動かされるものがあり、これはクリスマス・シーズンに親戚の家でのパーティーに参加した夫婦の話で、基本は夫のゲイブリエルを中心に話は進行するけれど、このゲイブリエル、自尊心の強いうぬぼれ屋というか、前半ではちょっと「鼻持ちならない」彼の自意識を読者に見せてくれる。それが後半、いつもと違う様子の妻のグレタを見て激しい情欲を覚えるのだけれども、それがパーティーでグレタが聴いていたアイルランド民謡<オーグリムの乙女(The Lass Of Aughrim)>に彼女が深く心を動かされ、かつてその曲が大好きだったひとりの青年のことを思い出してのことだった。ゲイブリエルはその青年に激しい嫉妬を覚えるのだけれども、グレタからすでに死んだその青年との話を聞き、「すべての世界を、宇宙を包み込む<死者たち>」のことに深く心を動かされるという話。
 わたしは残念ながら、この「The Lass Of Aughrim」という曲を知らなかったのだけれども、YouTubeで検索すると(この作品の映画化のときの映像を含め)何種類ものこの曲のシンギングが聴ける。映画版は残念ながらクラシック畑の歌手によるシンギングで(これは原作がそういう設定だからしょうがないが)、「アイリッシュ」という感じではない。何種類か聴いてみたけれども、このBeth Pattersonという人のシンギングが、まさにアイルランドの「シャン・ノース」というシンギングで気に入った。

 このBeth Pattersonは意外にもニューオーリンズを拠点に活動するアメリカ人で、実はこういうトラディショナルな曲をケイジャン・ミュージックやプログレッシヴ・ロックと融合させて活動しているとかいう。来日されたこともあるようで、けっこう人気がある人なのだ。こんどちゃんと聴いてみたい。

 それでわたしは、この『ダブリンの人びと』にあらわれるアイルランドのトラディショナルな曲の影響を、ちょっと考えてみた。『ユリシーズ』の中にも、けっこうトラディショナル・ソングのことも登場していたし、特に第17章「イタケ」でのブルームとディーダラスとの対話で、チャイルド・バラッドの「Sir Hugh」のことが重要な意味を持っていた場面もあった。
 その「Sir Hugh」、ひょっとしたらここでは「ある出会い」に影響を与えているのではないかとわたしは深読みしてしまった。「ある出会い」は、二人の少年が原っぱで一人の年取った男と出会う話なのだが、少年の一人はさっさと離れてしまうが、もう一人は男の話から逃れられない。実は男は「変態」ではあった。少年はもう一人の少年を呼んで、なんとか男の下から逃れるという話。「Sir Hugh」は、友だちらとボール遊びをしていたヒュー少年のボールが、ある屋敷の門口まで転がって行ってしまう。そこに緑の服の女性がいて、「ボールを取りにおいで」というのだが、ヒュー少年は「友だちといっしょでなければそこへは行かない!」という。しかし少年は招き入れられ、女性に殺されてしまうという話である。『ユリシーズ』の中では、その女性がユダヤ人であるということからブルームとディーダラスのちょっとした確執になるわけだった。
 まあ、展開はまるで違うけれども、遊んでいた少年がよその大人に招かれ、ちょっと危険な思いをするという骨子にはどこか共通しているところがある気がした。

 もうひとつ。「イーヴリン」という作品のことだけれども、ヒロインのイーヴリンは二、三週間前に出会った男に誘われ、いっしょに船でブエノスアイレスに行く約束をする。けっきょく最後の瞬間にイーヴリンは心を翻して男との船出をやめるのだ。
 「女が男に誘われて船に乗る」というのは、まさにトラディショナル・ソング「The Daemon Lover」のテーマである(この曲はスコットランド起源だけれども)。歌では女が男と乗った船は海上で難破して、女は死んでしまうのだが。

 まあ、こういうことはただわたしが「連想した」というだけのことで、ジョイスの作品の解釈だなどと大それたことをいうわけではないが。

 こうやって一度目はこの文庫本巻末のていねいな訳注と解説に目を通しながら読んだけれども、機会があればもういちど、訳注など気にしないで読み進めてみたい(いつのことになるかわからないが)。