ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『湖のランスロ』(1974) ロベール・ブレッソン:監督

   

 実はこの作品のことを調べていて、「製作総指揮」のジャン=ピエール・ラッサムという人物のことを知った。この人物、ゴダールがアンヌ=マリー・ミエヴィルととも設立した「ソニマージュ」の共同製作者として、巨額の資金を調達し、この「非=商業時代」のゴダールをサポートした人物だったのだ。興味深い人物だ。
 彼は1985年にまだ40代で夭折してしまうが、キャリアの初期から、いつかロベール・ブレッソン映画の製作することを夢見ていて、それが実現したのがこの『湖のランスロ』だったという。

 それでこの『湖のランスロ』。わたしは英語翻訳で「アーサー王とその王妃グィネヴィア、そしてランスロットの物語」として知っていた伝説だったが、けっこうわたしの知っていた物語とは異なっていた。そもそも登場人物の名前がフランス読みだし、まあ「ランスロット」が「ランスロ」なのはわかるけれども、「アーサー王」は「アルテュス王」、「グィネヴィア」は「グニエーヴル」である。「ガウェイン」は「ゴーヴァン」ね。けっこう実はタイトルロールの(ちょっと武骨な)「ランスロ」よりも「ゴーヴァン」の方がカッコいい男で、(美形好みの)ブレッソン監督は、実は「ゴーヴァン」の方に入れ込んでいたのではないかと思う。じっさい、そういう展開と演出だった。

 映画はいきなり、鎧に身を固めた騎士の闘いから始まり、なんと、そんな鎧の騎士の首がぶった切られて血が噴き出るという、ブレッソンとは思えないショットがあったりして、ぶったまげてしまう(このシーンはほとんど『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』で再現されていて、きっとモンティ・パイソンの連中は、この『湖のランスロ』を観た上で『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』を撮っていると思うが)。

 「騎士」の物語である。鎧に身を固めた騎士同士の闘い。そして、騎士らは「馬」に乗馬して闘いに挑む。ある意味で、この映画の一方の「主役」は、そんな「馬」たちではないかと思った。
 オープニングからしばらくの、そんな馬たちの「瞳」のクロースアップ、そしてラストで騎手のないままに森の中を駆け巡り、「戦闘のあと」の惨状を案内してくれる馬の姿が、印象に残る。

 そして、「騎士」の物語であると同時に、ランスロとグニエーヴルの「愛」の物語でもある。その愛が「純愛」ではなく、「不倫の愛」だということが、ポイントだろう。そこには、「二律背反」とか、「愛の不条理」などという言葉が頭に浮かぶが、犠牲ばかりが多かった聖杯探索の旅程から帰国したランスロは、再会したグニエーヴルに、「あなたを愛している。わたしたちは別れよう」と語るのだ。この、切り詰められたセリフのやり取りに、まさにブレッソンらしい演出を見出せるだろうか。
 この「不条理」が、「騎士道精神」というものと絡んでの、ひとすじなわでは行かない展開こそ、この映画作品の見どころ、醍醐味だろうか。

 ちょっとネットで検索して、この作品に対して否定的な意見として、「この題材を黒澤明が取り上げていたら、もっとドラマティックな作品になっていたことだろう」という意見を読んだが、そうなのだ。このブレッソンの演出は、こんな「騎士道」(「武士道」?)の物語でも、まさに黒澤明的な演出の対極にあるのだった。そして、それがいかに素晴らしいことか。

 たしかに題材としてはいかにもエキセントリックなもので、普通に演出しようと思えば、まさに『スターウォーズ』みたいな作品にしたがることだろう。しかしロベール・ブレッソン監督は、一見どこまでも「平坦な、起伏を感じさせない」演出で見せ、「そこをしっかりと演出して見せればドラマティックに盛り上がるだろう」というシーンを、あえて撮らない。
 劇中の「騎馬戦」のシーンで、じっさいの騎馬戦にほとんどカメラを向けず、その闘いを見ている人たちの姿を見せるのだが、これが意外と、黒澤明の『影武者』での合戦シーン、「騎馬」対「鉄砲」という戦闘で、さすがに騎馬が銃撃されてどんどん倒れて行くシーンを撮れず、采配している指揮者ばかりを写した演出と酷似してしまっていたというのが、ちょっと面白かったというか気になった。

 騎馬のシーンでも、馬に乗る騎士の姿はほとんど写さず、馬の胴から下だけを写す演出がつづく。
 敢えて「描かない」ということで成立する「美学」というものを堪能し、わたし的には、この作品は「傑作」だと思うのだった。