ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『やさしい女』(1969) フョードル・ドストエフスキー:原作 ロベール・ブレッソン:脚色・監督

     

 ロベール・ブレッソン初のカラー作品であり、ドミニク・サンダのスクリーン・デビュー作。
 原作はドストエフスキーなのだが、実はこの邦訳は『白夜』とカップリングされて文庫本で出ている。その『白夜』はヴィスコンティの映画が有名だけれども、ロベール・ブレッソンがこの『やさしい女』のあとに撮ったのが『白夜』だったらしい。

 その文庫本のAmazonでのユーザーレビューで、ある方がこの小説のタイトルの「やさしい」という語について書かれていたのだが、ロシア語で「クロートカヤ」というこの語、たしかに「やさしい」とか「おとなしい」とかいう意味なのだが、それはじっさいのところ「猛獣を鞭で打ちつづけてようやくおとなしくなったような状態、いつ暴れ出すかわからない激越なものを秘めた状態」を指すのだという(山城むつみ氏の著作『ドストエフスキー』によるらしい)。これは、この映画を解釈するうえで有益な情報ではあった。

 映画は、パリの夜景をバックとしたクレジットで始まるけれども、ブレッソンはなぜここで、本編とつながりのない「パリの夜景」を最初に持って来たのだろう? もう、そこからして考えさせられてしまう。
 本編、初老の女性がガラス戸のドアを開ける。「ガタ~ン」という音がして、ベランダのテーブルが手前に倒れる。そばの植木鉢が床に落ちる。次に、ビルの谷間高い位置に風をはらんでゆっくりと落ちて来る白いショールのショット。カメラは地面のショットにかわり、停まった車から降りる人の足、集まって来る人の足が写される。その先に、倒れた女性が血を流して横たわっている。
 もう、このオープニングだけで十分にショッキングというか、演出のちからを感じさせられる。そしてその、「ドアを開ける」という演出がまた、ブレッソン映画で特徴的だったりもして、この作品でもそんな「ドアを開ける」シーンが幾度も幾度も繰り返される。しかもそのドアは「ガラス張り」なので、開けられる反対側からの撮影で、ドアを開ける人物がしっかりと写っているのだ。「要チェック」である。

 このあとは全篇、部屋のベッドに女の遺体を置いた状態で、その女の夫(質屋を経営している)が彼女とのことを語りつづけることになる。ドストエフスキーの原作では、その男の独白をそばにいた速記担当者が書き留めて行くという構成らしいが、この映画では、同じ部屋にいる、最初に姿を見せた初老の女性に語っているということになっている。
 ではその「初老の女性」とは何者なのか?というのがわたしの気になったところなのだが、その家で家事を手伝う家政婦なのかと思ったのだが、夫の営む質屋の手伝いもやっているし、そもそも、その家で妻が亡くなったあとまで、遺体の安置された部屋にとどまっているというのが、単なる「主従関係」でもないように思ってしまう。
 まあこの女性の正体がわかったからといって、作品解釈に大きな影響もないようにも思うし、単に原作の速記担当者の代替案なのだろうけれども、ちょびっと気にはなったのである。

 つまりはこの夫、妻を愛してはいるのだが、いろいろなかたちで妻を束縛していたし、彼女のことにあまりに無理解だった。そんなことが、彼の独白の中から透けて見えてくるわけだけれども、妻もまた、まさにさいしょに書いたように「やさしい女」ではあったのだ。というか、「ハムレット」の舞台を夫と観劇に行けば、その劇で原作から省略された部分をすぐに言い当てるし、博物館で展示される魚類の骨格標本を見ても、動物園で動物らを見ても「一家言」ある。この男に「夫役」は無理ではないか、というところである。

 主演のドミニク・サンダはこの作品がスクリーン・デビュー。撮影時まだ十代だったわけで、そこで例えばブレッソンの『バルタザールどこへ行く』に主演したアンヌ・ヴィアゼムスキーがずっと後日、『少女』という自伝的小説でブレッソンがいかにヤバい存在だったかをバラしていたわけだけれども、この『やさしい女』でも、ブレッソン監督のドミニク・サンダへの執着が透けて見える気がする。

 『バルタザールどこへ行く』では、そのアンヌ・ヴィアゼムスキーの伏せ目がちの目、少し開かれたくちびるが印象的だったのだけれども、この『やさしい女』でのドミニク・サンダは、常に「上目づかい」の目線が魅力的というか、もう、それがスクリーン越しではあっても、あの目線にとらわれてしまったら、わたしとしては「なすすべもない」。
 あの目線は、ブレッソン監督の確信的な演技指導&演出だろうと思った。撮影(ギスラン・クロケ)も、その演出を引き立てる。*1

 この映画のチラシには、蓮實重彦の「ことば」として、以下のように書かれていた。

女優はこのように撮れと、ブレッソンはいっているかのようだ。
そう思って視線を向けた画面で、ドミニク・サンダは、一瞬ごとに、女優を遥かに超えた女へと、艶めかしく変貌してゆく。

 ‥‥まさに、という感じである。う~ん、もう一回観たいな!
 

*1:ちなみに、そんな『バルタザールどこへ行く』撮影時に、アンヌ・ヴィアゼムスキーに対するブレッソンの「接近」がヤバかったとき、アンヌを守ったのが撮影のギスラン・クロケだったという。はたして、この『やさしい女』でも、ギスラン・クロケドミニク・サンダを守ったわけなのだろうか?