ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2022-01-31(Mon)

 今朝も夢をみていた。ベッドから起き上がる前にその夢を何度も反芻して思い出し、「これだけしっかり記憶できていればもう忘れないだろう」と思っていたのだが、起き出して仕事に出る準備をしてそれで仕事に出かけ、仕事を終えて帰宅して「アレ? 今朝夢をみていたよなあ?」と、その夢の内容を思い出そうとしても、もう何も思い出せないのだった。まあいつものことである。

 今朝も、胸骨の痛みがかなりあった。通勤で電車に乗って、両側に人が座っていて空いていた席に座ろうとして肩をすぼめると、相当な痛みが胸に走る。「これはヤバい!」という痛みではある。あと2日ガマンすれば通院の日なので、そこまで辛抱。って、ガマンしていればいいという問題ではないのだが。

 仕事の帰りに、乗り換え駅の書店に注文してあったシャーリイ・ジャクスンの『日時計』が届いているというので、受け取りに行った。しばらく前にウチのとなり駅で本を注文したとき、その本がすでに入荷しているのに連絡がなかったことをめぐって、その書店の店員さんとやり取りをして、「言い訳にならない」言い逃れを言われて相当に立腹し、それからは本の注文はAmazonでしていたけれども、やはりリアルな書店をひいきにしたい。それで今回はその乗り換え駅の書店に注文していたのだ。これからは出来るだけ、新刊書はこの書店に注文しようと思う。

 ‥‥今でもときどき、その前の書店でわたしが立腹したのはわたしの「カスハラ」だったのかとか、「あれは許容すべきだったのか?」と思い返すこともあるが、やはりあのときの書店員さんの対応は「言い逃れ」であり、ひとことわたしに「すみませんでした」と言えばすむことだったのだと思い、「ありゃあ書店側がダメだった」と結論するだけだ。
 いろいろと、じっさいに目の前に「人」がいるときの対応はスムースに行かないこともある。実はわたしも「側頭葉てんかん」のせいなのかどうか、けっこう感情的に激しやすいところのある人間だけれども、そういうことは自覚しているからこそ、「待て待て、ここは落ち着いて!」と気を鎮めるようにしている。まあ「オレはちゃんとやってるよ!」と言って自慢するつもりはないが、気は遣っているつもりではある。
 今はわたしも、リアルに目の前の人と向き合って交渉するという機会も少なくなっているけれども、いつも気を遣っている。店のレジでは買うものを出して「お願いします」と言うし、清算が終われば「ありがとう!」と言うようにしている。そういう風にやって行けば、世の中は気もちいいものではある。

 それで、今読んでいるパトリシア・ハイスミスの短篇集『風に吹かれて』もじきに読み終わるわけで、では次は今日ゲットしたシャーリイ・ジャクスンの『日時計』を読もうかと思ったが、その前に先日買った、そのシャーリイ・ジャクスンの『鳥の巣』を先に読もうかと思い、帰宅してその本を探したのだけれども、コレが見つからないのである。
 まあわたしには「よくあること」ではあるけれども、やはり気になってしまい、いまだにあちこち探し回っている。

 この日は昼食も夕食も、昨日の残りの「肉じゃが」ではあった。ちょっと「しょう油味」が薄く、甘みの強い「肉じゃが」になってしまったが、これはこれで美味しかった(昨日書いたように、「しらたき」だらけの「肉じゃが」だったが)。参照したレシピがいつもと違ったせいだけれども、やはりいつもつくっていた「つゆがしょう油で茶色い」なじみの味の「肉じゃが」が懐かしくもなり、また「肉じゃが」を食べたくなってしまった。
 こういうことなら、昨日「しらたき」を一気に使ってしまわずに、半分残しておけばよかったのだ。つづけて「肉じゃが」をつくろうと思うなら、また「しらたき」をゲットしなければならない。

 夕方、リヴィングの窓から外を眺めたら、青空をバックに白い雲や灰色の雲が拡がっていて、奥行きを感じる気もちのいい空だった。

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