ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『赤い犯行 夢の後始末』(1997) 小林政広:脚本 サトウトシキ:監督

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 おなじみの「国映」製作の、いちおうは「ピンク映画」として公開された作品らしいけれども、ピンク映画お約束の「男女のからみシーン」というか「セックスシーン」は、ストーリーの流れとも関係なくまさに「言いわけ」程度にしか入っていない。まあもともと、サトウトシキ監督の作品にはそんなにこってりとセックスシーンが挿入されているわけでもないのだけれども、さすがにこの作品、そういうのを目当てにピンク映画館に足を運んだ観客さんは「何だこれは」と怒り出したんじゃないだろうかね。

 作品はまさに映画監督を主役とし、プロデューサー、脚本家らが絡んでくる「内幕モノ」というか、しばらく新作を撮れないでいるピンク映画の監督が、「自分の撮りたい映画」という夢の中に何かを失っていく姿を描いた作品、といえばいいのだろうか。一面でサトウトシキ氏と小林政広氏との、自虐的な姿も投影されているようではある。この作品の原案はサトウトシキ氏と小林政広氏との共同作でもある。
 わたしはしばらく、この「GYAO!」でサトウトシキ監督、小林政広脚本の「団地妻」シリーズを連続して観ていて、どこかすっとぼけた味わいながらも、映画として突出した演出の妙を楽しんできたのだったが、う~ん、この作品はシリアスである。というか、シリアスを装っているというべきか。

 主役の映画監督を演じているのは町田康で、いつも自分を押しつぶそうとする「現実」に抗うような表情を見せ、その存在でこの作品の主調を決めているように思える。そして「実は自分でも監督をやりたかった」脚本家を佐野和宏が演じているけれども、彼は現実に「映画監督」でもあるし、「脚本家」でもあるわけで、この作品と「現実」とが重なってくることになる。この他に映画プロデューサー、編集の手伝いをしている若い映画監督、そして映画監督の彼女、脚本家の彼女(葉月螢が演じている)、だいたいその位の出演者だけの映画である。

 映画監督はまず脚本家からもらった脚本で映画を撮ろうとするのだけれども、プロデューサーはその脚本を焼き捨て「これでは金は出せない。書き直せ」という。脚本家に書き直しを断られ、監督はホテルにこもって自分で脚本を書こうとするが、書けない。もういちど脚本家に頼もうと彼のアパートに行くと、脚本家は留守で、ワープロのディスプレイに彼の書いた脚本が表示されている。「いい作品だ」と思った監督は、ワープロからそのフロッピーを抜き出して持ち帰るのだった。
 プロデューサーは「これならイケる」とゴーを出し、監督も編集手伝いの若い監督に脚本を渡し、指令を出して動き始めるのだが、監督が自分の車に戻ると、そこには脚本家が待っていた。脚本家は「あの脚本は自分で監督するつもりだ」といい、フロッピーを返せと迫る。「フロッピーはホテルに置いてある」と監督はいい、脚本家と車で海沿いの道に出て、そこで脚本家を車で轢き、海に放り込むのだった。
 ところが翌日プロデューサーに会うと「製作費が下りない」という。監督はプロデューサーに疑念を抱き、「金がないならお前のベンツを売れ」というが、プロデューサーはそれを断る。
 脚本を渡された編集手伝いの若い監督は、「この脚本はすごいですよ。人に見せても評価が高いから、もうちょっと寝かせて大きなプロダクションを探し、もっと大きな規模の映画にするべきですよ」という。しかし監督は予定通り来週クランクインで、役者もいつもの顔ぶれでいいという。
 そしてなんと、海に放り込まれた脚本家は生きていて、自力で這い上がってくるのだった。病院に入院した脚本家のところに恋人が見舞にくる。脚本家は「一生に一本映画を撮るのが夢だった」と語るが、恋人は「夢のままで終わらせた方がいいことだってあるんじゃない。夢が現実になったら、つらいだけだと思う」という。「いいこと言うじゃないか」という脚本家。「だってそれ、あなたの脚本に書いてあったセリフよ」という彼女。
 映画監督は「ロケハン」ということで編集手伝いの若い監督と車で北に向かう。そして、「脚本家を殺してまで手に入れた脚本だ。これは自分の手で映画にする。役者やスタッフもいらない。ただキャメラとフィルムがあればいい」という。「それで何を撮るんですか?」と聞かれ、「情熱だ」と答える監督。「映画は情熱だ。情熱はキャメラのうしろにある」と。

 じっさいに、小林政広氏もサトウトシキ氏も、それまで映画にかかわってきて、この映画に描かれたようなことを思わされてきたのだろうか。「ダメじゃん、ダメダメ」という「自虐」の心情の吐露とも思えるところもある。この映画の中で脚本家が書いた脚本は、どうもそっくりそのまま、まさにこの映画自体の脚本のようであり、「メタ構造」というか「入れ子構造」にはなっている。
 ただ、やっぱりこの脚本、青臭いんじゃないだろうか。まあロマンティストといえばロマンティストなのだろうけれども、せっかく「団地妻」シリーズで突き抜けたところを見せつづけてくれたお二人だけに、何もここで「自己吐露」されてもなあ、という気はしてしまう。

 映画の中のセリフに、「映画」に関する言及がいろいろと語られる。冒頭には「映画の中で映画を語るのってサイテーだよな。タランティーノみたいな」などと出演者に語らせてるにもかかわらず、である。「今の日本映画は最低だよ」とも語るし、「俺たちって小津や溝口になれんのかな」みたいなこともいう。わたしは逆にタランティーノはいいけど、この映画内での映画への言及はやっぱマイナス要因ではないかと思う。
 ゴダールなんかももちろん映画の中で映画のことを語るのだけれども、それはまさに「映画論」ではあるし、タランティーノの場合はだいたい「演出論」「技術論」ではあっただろう(あんまりよく思い出せないけれども)。そういうことはぜったいに「サイテー」なことっではないと思う。で、この映画の場合は「状況論」なのであって、言葉はぜんぶ自分自身に返ってくる種類のモノであろう。それはもうある面で「たれ流し」で、「高校生じゃないんだから」って感想も持ってしまう(いやひょっとしたらこれは、自分で「映画の中で映画を語るのサイテー!」と言っておいて、それを自分でやらかすというギャグなのかなあ。それにしても‥‥)。

 しかしやはり、サトウトシキ監督の演出はやっぱりキレッキレで、観ていてどこかゾクゾクさせていただいた。何度も出てくる首都高速を走る車の映像、ラストの「雪景色」、そしてやはり、海から這い上がってくる佐野和宏である。
 今「GYAO!」ではもう一本、この二人のコンビになる「団地妻」モノが配信されている。早く観よう。楽しみだ。