ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アメリカの友人』(1977) パトリシア・ハイスミス:原作 ヴィム・ヴェンダース:脚本・監督

 むか~し観た映画で、ただその映画の中で、ブルーノ・ガンツが仕事をしながらキンクスの「There's Too Much On My Mind」を口ずさむことだけは記憶していたけれども、あとのことはほとんど忘れてしまっていた(ヴェンダースキンクスが好きなようで、最新作『PERFECT DAYS』の中でも、キンクスの「Sunny Afternoon」が流れた)。
 こうやって、原作小説を読んだあとに久しぶりにこの映画を観てみると、「ずいぶんと原作に忠実な映画なのだな」という印象が強かった。
 ただ、原作では額縁職人のトレヴァニーはパリに住んでいて、ドイツに行って暗殺を行うのだけれども、この映画ではトレヴァニー(映画では名前が変えられているが)はハンブルグに住んでいて、パリに行って暗殺を行うと、土地が入れ替えられているし、映画冒頭ではハイスミスの前作『贋作』のストーリーが活かされ、そのことがトレヴァニーとトム・リプリーとのさいしょの接点になったわけだし、ラストの展開はトレヴァニー家にマフィアらが襲ってくるというところは省略され、その前の段階、トムの屋敷に来たマフィアらをトムとトレヴァニーがやっつけ、その死体を始末するためにドライヴすることがさいごの展開になる(あと、トムはエロイーズと結婚してなくって、独身のようである)。

 ヴェンダースの映画としては珍しく、原作のテイストがしっかりと活かされた「サスペンス映画」というところで、それが原作の持つ「純文学」的な空気をしっかりと映像化し、さすがに「ヴェンダースによるサスペンス映画」という仕上がりになっていたと思う。これはもちろん、ヴェンダース監督がパトリシア・ハイスミスのファンだということからもくるだろう(『PERFECT DAYS』の中でも、ハイスミスの『11の物語』を引き合いに出し、古本屋の店主が「ハイスミスの魅力」を語るというシーンがあった)。
 ヴェンダースはこのあと、1982年に『ハメット』という、ダシール・ハメットを主人公とした「サスペンス映画」を撮っていて、わたしはそれがどんな映画なのか知らないけれども、ヴェンダースとしてはこの『アメリカの友人』を撮ったことの影響があったのではないかと思う。
 また、ヴェンダースはそのあと1984年にはあの『パリ・テキサス』を撮るわけだけれども、わたしはそこにはやはり、『アメリカの友人』の影響もあるのではないのかと思ったりする(近いうちにその『パリ・テキサス』を観るので、そのときにこういうことも考えてみたいとは思う)。

 改めてこの『アメリカの友人』という映画についてだけれども、やはりこの作品の良さのひとつに、ブルーノ・ガンツのそのキャラクター、そして演技というのがあるだろうと思う。白血病に侵されながら、死の恐怖をも見せる演技、そして何よりパリのメトロでの暗殺シーン(ここで暗殺されるマフィアを演じるのは、ダニエル・シュミットなのだ)の、どこか緩いけれども緊迫感を持続させる場面(ここはヴェンダースの演出手腕も賛美しなければならない)。そして妻と息子にみせる愛情(この「妻」を演じる、ヴェンダース映画の常連だったリサ・クロイツァーも素晴らしい)。

 それで問題の、「トム・リプリー」を演じたデニス・ホッパーだけれども、カウボーイハットをかぶって「俺、アメリカ人」と主張してくる彼は、正直ハイスミスの書いたトム・リプリーのイメージではないと思った。
 これは有名な話だけれども、ハイスミスは『アメリカの友人』でホッパーが演じたリプリーが嫌いだったが、映画を再度見た後、ホッパーがキャラクターの本質を捉えていると感じ、評価を修正したと、Wikipediaにも書かれている。
 そういうことで、デニス・ホッパーの演じたトム・リプリーを考え直すならば、彼がブルーノ・ガンツの挨拶にカチンときて、「コイツを俺のゲームに巻き込んでやろう」となるのはまさにデニス・ホッパーの持ち味全開ではあろうし、それがあとの列車の中でのマフィア暗殺シーンで「何のためらいもなく」人を殺すシーンも、デニス・ホッパーならでは、というところがある。そのあとに屋敷に攻め入って来るマフィアらにブルーノ・ガンツと共に立ち向かう展開も、まさにそれまでのアメリカ西部劇とかのキャリアが活かされていたのではないかとも思う。まさにそういうところで、デニス・ホッパーは「トム・リプリー」に適役、だったわけだろう。

 この映画の撮影はヴェンダース映画をずっと撮って来たロビー・ミューラーで、ハンブルグの街並みの撮影、そしてやはりメトロでの暗殺シーンの撮影とか印象に残るが、ラストにデニス・ホッパーがマフィアの死体を乗せた救急車を運転し、そのあとをブルーノ・ガンツと妻役のリサ・クロイツァーの乗る赤いワーゲンが追って、白い砂浜を走って行くシーンは心に残る。
 あと、映画全体で、「ノイズ」というか「物音」がしっかりと拾われていたことが、映画音楽などよりもずっと心に響く思いがした。

 観終わっても、「やはりこれは名作だな」とは思うのだった。また観たい映画だ。
 

2024-03-24(Sun)

 X(旧Twitter)を閲覧していると、このあたりの人はたいていの映画は流山おおたかの森駅のそばの「TOHOシネマズ」で観ることができるし、ちょっとカルトな映画なら柏駅のそばの「キネマ旬報シアター」で観られる、映画を観るにはずいぶんと恵まれた地域だという書き込みがあり、それはわたしも最近、ずっと感じていることだ。おかげで、「この映画は観たいな」というのは、わざわざ都心とかの映画館に行かなくっても、上記映画館のどちらかでたいていは上映してくれて観ることができる。
 前に観たいと思った『パトリシア・ハイスミスに恋して』も、上映館は都内でもわずかだったけれども、「キネマ旬報シアター」で上映してくれたわけだし、カウリスマキ監督の『枯れ葉』もここで観れた。
 やはり上映館の少なかったヴィクトル・エリセ監督の新作『瞳をとじて』も「TOHOシネマズ」で上映されたし(この作品、もうすぐ「キネマ旬報シアター」でも上映されるようだ)、ほんとうにわたしが観たいと思う作品、このどちらかの映画館で上映してくれるみたいだ。
 スクリーンで観たいと思っていた、トーキング・ヘッズのライヴ『STOP MAKING SENSE』も「TOHOシネマズ」でやっていて、「行きたい」と思っているうちに終わってしまった。それが来月には「キネマ旬報シアター」の方でやってくれるそうで、観に行ける。ありがたいことである。

 昨日は「キネマ旬報シアター」に『12日の殺人』を観に行って、映画が面白かったということとは別に精神的に元気になって、「映画を観に出かけてよかった」と思ったのだった。
 でも一日経って今朝目覚めると、また「鬱っぽい気分」に囚われてしまっていた。
 「こういうときは外出すればいい」というわけで、午前中に北のスーパーへ買い物に出かけた。この日もあまり暖かくはなく、空には青空も見えるけれども、けっこう雲もかかっていた。
 今日は「料理酒」と「牛乳」を買うのを忘れないように、と思っていたのだけれども、帰ってから考えてみたら、ニェネントくんの夕食にいつもトッピングしてあげる「ネコ用のカニカマ」とかを買い忘れていた。

 帰り道、道沿いの空き地に、ムクドリにまじってムクドリじゃない鳥がいるのを見た。ちょっとヒヨドリに似ている。しかしわたしは少し学習したので、この季節に木の枝にとまらずに地面に降りて来る鳥、そしてヒヨドリにちょっと似ている鳥というのは、「ツグミ」だとわかるようになった。眼の上に白い線が見えれば、まちがいなく「ツグミ」ではある。今の季節、ヒヨドリに比べれば目にする機会の少ない鳥だ。

     

 おとといパトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』を読み終えたので、ヴィム・ヴェンダースが映画化した、デニス・ホッパーブルーノ・ガンツの主演した『アメリカの友人』をサブスクで観たいと思っていて、「無料」ではないけどいいや、と思ったけれど、昨日観た『12日の殺人』の監督の前の作品『悪なき殺人』というのが、「Amazon Prime Video」の「スターチャンネル」に加入すれば観られることがわかった。「スターチャンネル」に加入してしまえば『アメリカの友人』も観られるし、前は「観なくてもいいかな」と思っていたヴェンダースの旧作もいろいろ観ることができる。
 うん、これから1ヶ月はその「スターチャンネル」を楽しもうか。ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』を何十年ぶりに観てみるというのもいいだろう。

 それでさっそく1ヶ月契約し、まずはヴェンダースの『アメリカの友人』を観た。さいしょに観たときの記憶などほとんど残ってないのだが、思っていたよりもずっと原作に忠実で、ちょっと驚いてしまった。

 映画を観たあとは大相撲の千秋楽中継を見た。昨日の取組みで足を痛め、この日出場するかどうかやきもきさせられた尊富士は負傷をおして出場したのだった。
 これが足の負傷を感じさせない相撲で見事に勝利して優勝を決め、大歓声に包まれた。新入幕の力士が優勝するのは110年ぶりのこと。また、初土俵から優勝までわずか10場所しかかからなかったというのも、これまでの記録を大幅に塗り替えたのだった。

 今はハイスミスリプリーシリーズの第4作、『リプリーをまねた少年』を読み始めたが、読み始めはいつもなかなかはかどらないのがいつものことで、この夜もほとんど読まないままに寝てしまった。
 

『12日の殺人』(2022) ドミニク・モル:監督

   

 ある年の10月12日の深夜3時、ある家でオールナイトで開かれていたパーティーから、女子大生のクララは「ウチへ帰る」と会場をあとにする。帰り道、公園のそばで男がクララに近づき、彼女にガソリンをぶっかけ、ライターで火をつける。
 彼女の焼死体は翌朝発見され、捜査が始まった。彼女の持っていたスマホは無傷に回収され、それで彼女の身元もわかるし、事件の直前に友だちにメール画像も送っていた。
 捜査にあたったのは現地警察署の若い刑事のヨアン(バスティアン・ブイヨン)、ベテランのマルソー(ブーリ・ランネール)らの面々。まずヨアンとマルソーとでクララの家を訪れ、クララが殺害されたことを告げる任にあたるのだが、被害者の家の中に被害者とネコがいっしょに写っている写真を眼にして、ことばに詰まってしまうのだった(映画の冒頭、夜中に家に帰るクララのそばに黒猫がいるのが映っていたし、そのあとも映画の中には随所に「黒猫」が登場する。実は犯人は「黒猫」なのだ、というか、この「黒猫」が見つからない犯人の「暗喩」なのだろう)。

 まず、クララが最近付き合っていた男が参考人で取り調べを受けるが、アリバイがあるようだ。調べて行くとクララと関係のあった男たちが次々に捜査線に浮上し、取り調べが行われるが捜査は進行しない。クララは、何というか「男を求める」タイプの女性だったようで、何人もの彼女と関係のあった男たちの存在があらわになる。参考人の中にはクソみたいな男もいたし、まさに「DV犯」の男もいた。
 ヨアンによる取り調べに、クララの女友達は「なんで彼女は殺されたのだと思う? 彼女が<女の子>だったからよ」と語るし、捜査する警察官の中にはあからさまにクララを侮蔑することばを吐く人物もいて、ヨアンを怒らせる。そんなヨアンも、「取り調べを受けた男性らは全員、犯人の可能性がある」と思う。

 どうもこの映画が描くのは、ジェンダー、性差別、ミソジニーの問題でもあるようだ。ヨアンの同僚のマルソーは自分の妻が浮気して妊娠していて、夫婦関係も泥沼状態にあり、思いっきり自分の個人的感情を参考人にぶっつけたりもする。

 事件は未解決のまま3年の月日が流れるが、そのとき、予審判事(女性)がヨアンが過去に提出した調書を読んで事件に興味を持ち、ヨアンに「もういちど捜査してみないか?」と持ちかける。ちょうど事件から3周年の日も近く、クララの墓のそばに「隠しカメラ」を仕込んでみる計画が実行される。犯人がクララの墓参りをするのではないか、というわけだ。
 このときには警察の捜査陣も一新されていて、ヨアンのもとには「優秀な成績を持ちながらも自分から現場配属を望んだ」ナディーアという女性もいる。彼女が「本部詰め」を望まなないというのにも、本部の中で「女性であることの困難さ」を感じていたらしい。
 ここで、仕込んだ隠しカメラには、クララの墓の前で突っ伏して祈る男の姿が映されていて、捜査陣は色めき立つのだが。

 もちろんその男は「犯人」ではなかったのだが、ここでナディーアは「男と女のあいだの溝は埋まらない」と語り、最後の容疑者の件から「生者」と「死者」という、それまでの「男性」と「女性」という二項対立とは別の考えを語る。ここに、主人公のヨアンの囚われていた問題もあったのではないかと思えたし、映画の視点が拡がった思いがする(この挿話を「無用」と感じる人もいるかもしれないが)。
 ラストの、自転車で公道を走るヨアンの姿には、この事件に囚われてしまっていたヨアンが、事件から解放されたことを象徴していたのかもしれない。
 事件が解決したわけではないのだが、映画の冒頭から「未解決事件」と語られていたわけだから、「未消化感」に陥るわけでもない。

 先日観た同じフランス映画の『落下の解剖学』も、結末が「真実」だという作品ではなかったが、『落下の解剖学』が「事件」を通じて家族それぞれの「思い」を解体して見せてくれたように、この『12日の殺人』は、捜査にあたる人々の、事件による「ゆらぎ」を捉えた作品だっただろうか(そういえば、『落下の解剖学』も舞台はこの映画と同じく「グルノーブル」だったのではなかったか?)。観客のわたしの心もまたゆるがされるような、インパクトの強い作品だった。
 

2024-03-23(Sat)

 昨日考えたように、今朝はとなり駅の映画館へ『12日の殺人』という映画を観に行こうと思ったのだけれども、やはり「ヤル気」が出ないというか、ギリギリまで「出かけたくな~い、映画観るのやめよう」とかグダグダと考えていた。
 でも「気分転換」も兼ねて映画を観に行こうと考えたのだから、このまままた家でウダウダしていると同じダメダメな気分をいつまでも引きずることになる。
 「よし!出かけよう!」と決め、お留守番をしてもらうニェネントくんに買ってあった「サーモンの切り落とし」をいっぱい出してあげた。ニェネントくん、にゃーにゃー啼いてよろこぶ。そんなニェネントくんをみて、わたしも出かける元気が湧いてきた。

 「さあ出かけよう!」とドアを開けて外に出てみると、予想外に雨がポチポチと降っていて、けっこう寒いのだった。駅へ歩く途中で、映画を観ながら飲もうとホットのカフェラテ缶を買うのだった(これを持って映画館にすわったころにはすっかりヌルくなってしまっているだろうけれども)。
 電車に乗って次の駅で降り、映画館に到着。

     

 けっこう観客は少なかったか。終映後に場内を見渡しても10人もいなかった感じ。しかし、わたしの好きなタイプの映画ではあったし、(こういう映画を観たあとにいうのも何だが)元気にもなった。
 映画館に置いてあったチラシとかで、この映画館でもいずれ『落下の解剖学』も上映されるらしい。うん、もういちど観てもいいな。

 映画館を出ると、もう雨もやんでいた。ちょっと映画館から離れたところにある居酒屋のそばに大きな桜の木が生えているのを、「もう咲きそうになっているかな?」と、見に行ってみた。
 もうつぼみはいっぱい大きくなっていて、先っちょの方はピンクに色づいているようにも見えた。

     

 でもこの日はこんな雨模様で肌寒い天候だし、桜の花が咲くのは来週中ごろ以降のことだろうと思う。

 帰りに自宅駅までのスーパーに立ち寄り、「今日はちょっと寒いしウチにはダイコンもあることだし、夕食は<おでん>にしよう!」と、「おでんセット」とかを買って帰った。

 帰宅して、テレビを見ていたらこの日は高校野球が雨で中止で、代替番組で「ワイルドライフ」という動物ドキュメンタリー、「タスマニアデヴィル」についての番組を放映してくれた。ほとんど生態を知らない動物だったので、興味深く見たのだったが、近年このタスマニアデヴィル間で感染する悪性腫瘍(ガン)が蔓延し、タスマニアデヴィルの数はかなり減少しつつあるという。番組の最後では、タスマニアデヴィルの中でそのガンに対する免疫が出来つつあるようだと、希望的観測が語られていたが、ラストのクレジットを見ると、このドキュメンタリーの製作は2016年だった。「そのあとどうなっているのだろう」とWikipediaを見てみたが、最新データは掲載されてはいないようだった。心配になるところだ。

 そのあとは夕食の「おでん」のための、ダイコンの下茹で作業。前回茹ですぎてダイコンがふにゃふにゃになってしまったりしたので、今日は短めの時間にして、様子を見ながらの作業。今回は成功。さらにゆで卵をつくったり、ジャガイモも先に少し煮込んだりして「おでん」の準備。
 夕方から鍋に材料をぶち込んで「おでん」の製作。ただ煮込むだけでかんたんなのだが、ちょっとばかりつくり過ぎ。これでは明日の分ばかりでなく、あさっての食事も「おでん」になってしまうだろう。

 大相撲の十四日目の中継も見ていたが、ひとり一敗だった尊富士は朝乃山との対戦だった。勝負は朝乃山の完勝で、優勝争いは千秋楽に持ち越されてしまったが、勝負のあとに尊富士は足を痛め、車椅子で退場。そのあと救急搬送されたらしい。明日の千秋楽に出場できるのかどうか、今はまだわからない。
 

『アメリカの友人』(1974) パトリシア・ハイスミス:著 佐宗鈴夫:訳

 原題は「Ripley's Game」なのだけれども、この邦訳が刊行される前にヴィム・ヴェンダース監督による映画化作品『アメリカの友人』が先に公開されて知られるようになっていて、この邦訳も『アメリカの友人』というタイトルになってしまった。映画とちがって、何が「アメリカの友人」なのかということは、この原作本だけではわかりにくいことになってしまっている(映画では、ジョナサンの夫人がジョナサンに「あなたはあのアメリカの友人と仲良くやってればいいのよ!」と語るシーンがあり、「アメリカの友人」とはトム・リプリーのことだとわかるのだが。

 前作の『贋作』にも登場した、トム・リプリーマイクロフィルム(らしきもの)の密輸、転送の仲介を依頼していた、ドイツ在住のリーヴズ・マイノットという人物が、この作品ではおもてに出てくる。彼はハンブルクでマフィアのひとりを暗殺する計画を立てていて、その実行犯に「履歴に傷のない」まっとうな男、いわば「素人(しろうと)」を探していて、リプリーに心当たりを聞いてくるのだ。報酬はかなりの額だという。
 リプリーはそのとき、あるパーティーで出会った額縁職人のジョナサン・トレヴァニーという男のことを思い出す。彼は「リプリー」という名前を聞き、「噂は聞いております」と語ったのだ。そのことにリプリーはカチンと来ていた。「オレの悪い噂は承知しているということだな?」と受け取ったわけだ。
 しかもそのあと、リプリーはそのジョナサン・トレヴァニーという男が白血病を患っていて、長期治療を受けているとの話も聞くのだ。
 リプリーは、ジョナサンの自分へのイヤミな挨拶(とリプリーは受け取った)の意趣返しの気分もあって、リーヴズ・マイノットにジョナサン・トレヴァニーを紹介するのだ。ここでジョナサンが白血病という話を聞いたリーブズは、ジョナサンに「ドイツの専門医の検査が受けられる」ということとセットで「暗殺話」を持ち出す。診断書をすり替えてジョナサンに「白血病は悪化している」と思い込ませたリーヴズは、「高額の報酬を家族に残してあげることも考えてみては?」と持ちかけ、ジョナサンに「殺し」を承諾させるのだった。
 鉄道のホームで後ろからターゲットを射殺するやり方は、証拠も残さずにうまく成功するのだが、リーヴズはさらに次のミッションをジョナサンに依頼するのだった。それは列車の内部で実行する、さらに危険度の高いミッションではあった。
 リーヴズから新しいミッションの話を聞いたリプリーは、「それはしろうと一人では実行は難しい」と思うし、そういうところへジョナサンを追い込んだ自分の行為を悔いるのだった。
 そしていざそのミッションの実行というとき、その列車にはトム・リプリーも乗っていた。リプリーは自分がリーヴズにジョナサンのことを勧めたことも告白し、ジョナサンに「わたしが手伝う」と告げ、二人で一人のマフィア幹部を殺し、一人のボディガードを列車から転落させるのだった。

 リプリーの心配は、殺せなかったボディガードが自分の顔を憶えていて、マフィアの連中が報復に来ることだった。リプリーは妻のエロイーズと家事手伝いのマダム・アネットを屋敷から他所へやり、自分一人では対処できないと考えて、ジョナサンに「手伝いに来てほしい」と連絡をするのだ。
 ジョナサンの妻のシモーヌは夫の銀行口座に大金が振り込まれていることも知っているし、夫がヤバい仕事をやっているのではないのか、そのことにトム・リプリーが絡んでいるのではないのかと思ってジョナサンを非難する(シモーヌも、リプリーの「悪評」は十分承知している)。
 じっさいにマフィアの2人がリプリーの屋敷を襲い、これをリプリーはジョナサンの協力を得て殺すのだが、そのときにジョナサンの妻のシモーヌリプリー邸にやって来て、マフィアらの死体も眼にしてしまうのだ。
 ストーリーはまだまだ続くが‥‥

 まず面白いのは、ここでトム・リプリーが「マフィア」の攻撃を受けることになり、「自分ひとりでは手に負えないだろう」と、初めてジョナサンという「仲間」を求めるということ。これは前作『贋作』でもバーナードに死体を埋めることの手伝いを求めていたけれども、あれは「後片付け」というところではあったし、今回の「共同戦線」というものとは大きく意味合いが異なると思う。
 そもそも、ドイツの列車の中でリプリーがジョナサンを手伝ってマフィアを始末したときも、「互いに協力し合って」というところがあり、ちょっとこれまでのトム・リプリーというイメージがくつがえったわけでもあった。

 ここでもうひとつのこの本の「キモ」ともいえるのが、そのリプリーの「グッドフェロー」かという存在になったジョナサンに、シモーヌというしっかりした妻があったことで(ジョルジュという子どももいるのだが)、そのシモーヌが、自分の夫のジョナサンがリプリーのところに行くこと、リプリーと関係を深めることを忌み嫌うわけだ。そりゃあリプリーには悪い噂もたっているし、シモーヌはジョナサンが大金を得たということもリプリー絡みのことだろうと思ってはいる。
 つまり、構図としてここで、ジョナサンをめぐるリプリーシモーヌとの「三角関係」だということがわかる。ここでもトム・リプリーの同性愛的なファクターが生きてくるわけだけれども、特にそういった関係としてみての、リプリーのジョナサンへの執着ということは、表面的には見えてはいない(ジョナサンが自宅に泊まったとき、ジョナサンが使った歯みがきへのちょっとした執着は書かれていたが)。逆にリプリーシモーヌを「しっかりした女性だ」と認め、何とか彼女に自分とジョナサンとの関係を説明できないものかと考えてはいる。
 しかし、ラストの展開のあと、シモーヌは警察とかにトム・リプリーの名前を出すことはなく、ここでもリプリーは無事にこの難関を切り抜けることになる。ただシモーヌリプリーへの憎悪は強く、ラストに街ですれ違ったリプリーに、シモーヌは唾を吐きつけるのである。

 中に興味深いリプリーについての描写があった。書き写しておこう。
 「ジョナサンにたいするシモーヌの気持ちは変わらないだろう、とトムは思ったが、なにも言わなかった。たぶん、家に着けば、その話になるだろう。ほかにどんな話があるか? 慰めるのか、励ますのか、和解させるのか? 実際、どう言ったらいいかわからなかった。女というのは不可解だった。」
 一方のジョナサンは、このときにはもうシモーヌを失ったつもりでいた。

 中盤からは、このトム・リプリー、ジョナサン・トレヴァニー、そしてシモーヌトレヴァニーそれぞれの抱く「不安感」というものの描写が、いかにもパトリシア・ハイスミスらしくもあったが、やはりとりわけトム・リプリーの不安感というものが、単なる「サスペンス小説」という枠を超えている、とは思うのだった。
 ひとつ、前作の延長でトム・リプリー夫人のエロイーズの登場場面を楽しみにしていたのだけれども、リプリーに「じゃまだから出かけてなさい」って感じで、ほとんど登場しなかったのは残念だった。
 

2024-03-22(Fri)

 昨日あたりから、大変に体調がよろしくない。何もやる気にならず、体が重い。下痢っぽい感じでもある。原因ははっきりしていて、先日旧友が送ってくれた野菜などと一緒に「焼酎」の紙パックが含まれていて、ついついそいつを飲んでしまったためなのだ。それで最悪の体調になってしまった。
 酒さえやめればもとに戻るのだろうが、それまでちょっと時間がかかっている。しばらく酒を飲まない生活がつづくうちに、アルコールを受け付けない体になってしまっているようだ(適量のワインとかならば問題はないことはわかっているが)。今回の経験は「やはりもう、強い酒を飲んではいけないなあ」と、強く思うことにはなったわけだ。

 体調が悪いといってもフラフラしたりするわけではなく、午後からちょっとコンビニへ買い物に出たが、逆に外を歩いた方が体がシャキッとするようでもあったのだ。
 コンビニへの道沿いの空き地に、スイセンが雑草のように群れて生えていて、それがいっせいに花咲いていた。生命力の強い植物なのだろうな。

     

 さて、そんな焼酎と一緒に「シイタケ」も送っていただいていて、早く調理して食べないと傷んでしまうのだが、もう長いことシイタケを使った料理などつくっていないので、何をつくればいいのか悩んでしまった。まあネットで検索すればいろいろ出てくるわけで、けっきょく「豚肉とシイタケのオイマヨ丼」というのをつくることにした。炒めるだけで簡単そう。
 「オイマヨ」というのは最近知ったのだが、オイスターソースとマヨネーズとの相性がとってもよくって、この2つを味付けに使うと美味なのだ。
 シイタケをたくさん使い、なかなかに美味しい総菜になった。炊き立てのごはんの上にのっけてかき込むのだった。

 やはりこの日は映画とかは観る気にもならず、ただ「今はどんな映画が配信されているのか?」とかをチェックするだけで終わってしまった。
 先日、アンソニー・マンの監督作品を連続して観てなかなかに面白かったので、また1940年代とか50年代の映画監督の作品を連続して観てみるのもいいな、などと思ったのだが、そういうのではマックス・オフュルスの作品が数本観られるようで、次はマックス・オフュルス監督の作品など連続して観ようか、などと思うのだった。ほんとうはダグラス・サーク監督の映画が観たいのだけれども、これはもうDVDとか買わないと観られないようだ。

 ウチで映画を観る気にはならないけれども、映画館まで出かけて映画を観るのなら「気分転換」にもなっていいのではないだろうか。
 ちょうどとなりの駅の映画館では、明日からは朝早くの上映で、観たいと思っているフランス映画『12日の殺人』という作品が観られる。ちょっと映画の紹介を読んだ感じで先日観た『落下の解剖学』が思い出されてしまい、わたし好みの映画なのではないかとも思っている。明日の朝、観に行ってみようかと思う。

 夜は何をするでもないので早くにベッドに入り、読んでいるパトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』を読んだ。残りあと百ページちょっとだったのだけれども、読んでいて興が乗ってしまい、一気にラストまで読んでしまった。これはめっちゃ面白かった。ハイスミス作品の中でも「傑作」のひとつだろう。ある種、「三角関係」として読める。
 ヴェンダースの映画も観てみたくなった。今「Amazon Prime Video」で観ようとすると有料になるのだけれども、タマには、有料でも観たい映画をそのときに観よう。
 次に読むのは、『リプリーをまねた少年』だ。
 

『黒猫・白猫』(1998) エミール・クストリッツァ:監督

 「1998年の作品」だったとは、もう前世紀の作品になっているのだなあ。この1年前のクストリッツァ監督の作品『アンダーグラウンド』が好きだったが、当時のわたしの周辺では「フェリーニじゃねえか!」って意見が多かったように記憶している。
 今回、その『アンダーグラウンド』も「Amazon Prime Video」も観ることができるのだけれども、「3時間の大作」なもんだったし、この『黒猫・白猫』を観た記憶もなかったので(『アンダーグラウンド』だって、観たとはいってもな~んにも記憶してないのだが)、今日は『黒猫・白猫』を観るのだった。

 舞台はユーゴスラヴィアのどこかなのかなあ。賭け事や儲け話にばかり夢中になる男たち。きっとロマの一族なのだろう。み~んな口ひげを生やしてフランク・ザッパみたいな顔をしていて、登場人物の区別がつきにくい。なんか知らんけど石油を運ぶ貨物列車を乗っ取ろうとしてるみたいなフランク・ザッパがいるけれども、別のフランク・ザッパに邪魔されてしまうようだ。フランク・ザッパたちにはそれぞれ同じようなオヤジがいて、構図としてオヤジさんたちはゴッドファーザー的な立ち位置で、その息子のフランク・ザッパたちはギャンブル好きのチンピラ。
 一方のフランク・ザッパにはザーレという息子があって、その息子ともう一方のフランク・ザッパの娘のアフロディタと結婚させようという話が進む。その娘は「テントウムシ」というあだ名で、身長1メートルだと言われている(たしかに背は低いけれども、かわいいといえばかわいい)。でも息子のザーレはイダという女性と知り合い、将来を誓い合っていたのだ。しかしいかんともしがたいままに結婚式当日となる。ところがゴッドファーザーのひとりは急死してしまうし、アフロディタはザーレとの結婚をいやがり、「理想の花婿」を探して結婚式場から消えてしまうのだ。急死したゴッドファーザーの死を隠すため、彼の死体は屋根裏部屋に運び、大きな氷を抱かせる。
 ところがさらに、式場へやって来たもうひとりのゴッドファーザーもまた、急死してしまうのだ。

 いやはや何とも、大騒ぎのお祭り騒ぎ。ここにロマの民族音楽の演奏が加わるし、タイトルにある黒猫と白猫、それからあちこちにあふれるガチョウ、車をかじりつづけるブタ、それからヤギとかの動物たちにあふれる、楽しい映画である。
 これがしっちゃかめっちゃかのようでいてストーリーはぶっ壊れてしまわないし、観ていてもニコニコと楽しくなる映画ではあった。