ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ロブスター』(2015)ヨルゴス・ランティモス:監督

 むかし、マーガレット・アトウッドという作家の書いた『侍女の物語』というのが話題になり、映画化もされたのだった。わたしは読みも観もしていないけれども、フェミニズム的視点も持ったディストピア作品で、女性はただ「子供を産むため」だけに存在する世界の話だった。

 この『ロブスター』という作品を観て、まずはその『侍女の物語』を思い出してしまったのだけれども、つまりこの映画の世界では人々はパートナー(恋人)を持つことが義務というか、連れ合いがいなくなったシングルの人間は森の中のホテルのような施設に送られ、男女同数が共に生活するその空間で新しいパートナーを見つけることが期待されている(「同性愛のカップル」でもОKみたいだで、「繁殖」のためではないようだ)。「自慰」は禁止されているが、接客係はセックス一歩手前のような微妙なサーヴィスを収容者に行う。施設内では毎日、ちょっと「カルト教団」のような雰囲気もある「交流の場」がもたれ、パートナーを得るチャンスとなる。猶予期間内(45日間)にパートナーを見つけられなかった人間は、当人の希望する「動物」に姿を変えられて、森に放たれる(オオカミやペンギンなど、禁止されている動物もある)。また、森には「独身者」がおおぜい隠れて暮らしているようで、施設に収容された連中には毎日、麻酔銃を持って森で「狩り」をする時間がある。そこで独身者を狩ると、一人につき一日、猶予期間が延長されるのだ。

 主人公のデヴィッド(コリン・ファレル)は別の男を見つけた妻に去られ、この施設に収容される。かつてやはりここに収容され、今は犬になってしまっている兄といっしょである。なお、デヴィッドがもしパートナーを見つけられなかったときに変身を希望する動物は「ロブスター」。なぜなら100年という長寿であり、生涯生殖活動が続けられるからだそうだ。
 収容者は男女とも特徴的な性癖を持っているようで、同じような性癖の持ち主同士が結びつきやすく、そこで自分を偽ってカップルになろうとするものもいる。デヴィッドは「冷酷な性格」を装い、そういう「冷酷」な女性とカップルになろうとするが、彼女は犬である兄を蹴り殺す。そのときにデヴィッドが涙を浮かべたことで「冷酷」は噓とばれ、ふられてしまう。
 施設の在り方について行けなくなったデヴィッドはある日、森へと逃走する。そこには多くの「独身者」が隠れて住んでおり、彼ら彼女らにも厳格な規則があった。まず「恋愛」は禁止である。しかしだんだんに、デヴィッドはグループの「近視の女」(レイチェル・ワイズ)と恋仲になって行く。

 ラストに、デヴィッドとの恋愛がばれ、「独身者グループ」のリーダーに盲目にさせられた「近視の女」はデヴィッドと共に森から逃走して街へ行く。そこのカフェでデヴィッドは「待っていてくれ」と彼女を席に残してトイレに行き、自分で目をナイフで突こうとしている。座席では女が彼の戻るのを待っている。波の音が聞こえる。

 ‥‥自分で自分を盲目にしたらば、彼女のいる席へ戻ることも困難になるだろうとは思うのだが、そういうことを言いたい映画ではないだろう。
 しかしそうやって二人で森を出て街へ出れるのなら、もっとサッサと森を出ればよかったじゃないかとも思うが、そういうことを言いたい映画ではない。

 前半、収容施設内では収容者は「パートナーを見つけること」を求められ、短期間内にパートナーを見つけるためか、皆「(肉体的にせよ精神的にせよ)自分と同じような特徴」を持つパートナーを探す。しかしここで自分を偽ってパートナーを探した主人公は悲しい失敗をする。
 後半、森の「独身者」グループでは逆に「恋愛」はご法度。それなのに主人公は「近視の女」と恋愛関係になってしまうのだけれども、でもコレは、主人公も近視だったからという「共通点」があったからにすぎないようにも思える。そもそも「恋愛」とは、相手とのあいだに「共通点」があるから恋愛が成立する、などというものではないだろう。あったりまえのことだとは思うが(まあ多少の「共通項」が必要だということは否定しないが、「絶対条件」ではないと思う)。
 ラストはけっきょく、「この恋愛は収容所内でと同じように不合理なものだった」ということではないかと思えるのだが、わたしは、「肯定」も「否定」も、その前提が間違っていれば似通ったものではないか、という思いにとらわれるのであった。

 映画のラストテロップの流れるあいだに聴かれる曲は、ソフィア・ローレンが主演した映画『島の女』でソフィア・ローレンが歌った「イルカに乗った少年」という曲。この映画はギリシャで撮影されたものだったということで、ギリシャヨルゴス・ランティモス監督の琴線に触れたのだったろうか。

 あと、わたしが動物にされるとしたならば、「リクガメ」一択ではある。