ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『回路』(2001) 黒沢清:脚本・監督

 2001年のカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門に出品され、「国際批評家連盟賞」を受賞した作品。『CURE』につづいて黒沢清監督の海外での評価を高めた作品で、『CURE』はフランスで評判を呼んだことに対して、この『回路』はアメリカでも人気が出て、ウェス・クレイヴンが脚本に絡んだハリウッド版リメイクまで撮られたらしい(酷評多し)。

 この作品はインターネットを介して「死後の世界」から侵入してくる「幽霊」による終末論的な物語。主演は麻生久美子加藤晴彦、そして小雪らで、役所広司もちょびっと出演している。

 映画は終盤までは麻生久美子のパートと加藤晴彦のパートとが交差せず別々に進行する。麻生久美子は東京のプラント販売会社の社員だが、即売会の顧客リストを担当した男から連絡がなく、その男の家に行って彼に会って話をする。しかし実のところ男は首つり自殺をしていた。彼のパソコンには、パソコンに向かって座っている彼の後ろ姿が映されていた。
 麻生久美子の同僚の男に電話がかかってきて、その電話からは「助けて」という声が聞こえる。男は先に自殺した男の部屋へ行くが、男が自殺していた壁には黒いシミのようなものが残されていた。彼は閉じられたドアの中で「幽霊」に出会う。
 麻生久美子の同僚の女性は「変なことが起こり始めている」と過度に怯えをみせるようになり、そのうちに会社の社長もその同僚も姿を消してしまう。離れて暮らす母親が心配になった彼女は、母親のもとへと向かう。

 一方、加藤晴彦はパソコンのインターネットのビギナーなのだが、インターネットに接続しようとして妙な画像の映る、「幽霊に会いたいですか?」というメッセージのあるサイトに自動的につながってしまう。大学でパソコン研究室の小雪に出会って相談し、彼女の言うように対処しようとしたのだが、壁一面に「助けて」と書かれた部屋に座っている、顔のわからない男の映像が再生される。
 研究室の男は、仮説として「死者が死者の世界からあふれ出て、この生者の世界に侵入し始めているのではないか」と話す。小雪小雪で、自分が孤独の中に閉じ込められるのではないかと語る。
 大学からも街からも人の姿が見えなくなり、加藤晴彦小雪と一緒に遠くへ逃れようとするのだが、誰も乗っていない電車は途中で止まってしまい、家に帰りたいという小雪は電車から跳び下りていなくなってしまう。

 東京に戻って小雪を探そうとする加藤晴彦は、故障した車に乗っていた麻生久美子と出会い、車を修理してやって一緒に行動することになる。
 廃工場を見つけた二人が中へ入ると、そこには小雪がいたのだが、彼女は持っていた銃で自殺してしまう。加藤晴彦もその廃工場の中の閉まった部屋の中で幽霊と出会ってしまう。
 二人は「行けるところまで行こう」と車を走らせるが、東京の風景は廃墟のようになっていて、煙を吹く飛行機が墜落して行くのだった。
 埠頭まで到達し、そこからはボートに乗って海に進んだ二人は、役所広司が船長らしい貨物船(?)に出会い、助けられる。役所広司は南米からの信号をキャッチしたと言い、船は南米へと向かう。しかし加藤晴彦は船室で黒い影になって消えてしまっていた。

 黒沢清の映画としてははっきりとした「ホラー」で、幽霊もその姿をスクリーン上に姿をあらわす。ここで黒沢監督はおそらくは先行した『リング』に対抗する意識もあったのではないかと思う。
 『リング』でテレビから這い出す「貞子の亡霊」を演じたのは「演劇実験室・万有引力」の劇団員で、「舞踏」の素養もあった方だったが、この『回路』では、前半に登場する「幽霊」はコンテンポラリー・ダンス界で名をはせ始めていた北村明子、そして終盤に加藤晴彦の前に姿をあらわす「幽霊」は、アングラ劇団「流山児★事務所」の看板役者、塩野谷正幸だったわけで、どうもこの配役は『リング』を意識していたっぽい。
 『回路』の幽霊はどちらも相当に怖いのだが、とりわけ北村明子の演じた幽霊はその「不安定さ」を際立たせ、観客に大きなインパクトを与えたようだ。
 ちなみに、北村明子さんはその後も活躍をつづけられ、わたしも何度か彼女の舞台を観たこともあったし、今では国際的な場で活動・活躍されておられる。わたしは今日の今まで知らなかったのだが、彼女のHPのプロフィールをみると、「2009/2010年には、フランスのチェンバーロックバンドArt Zoydの新作オペラ『KAIRO』(原作:映画監督・黒沢清)に出演し、映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』でも絶賛される。」とある。わたしもArt Zoydは聴いたこともあるが、この作品のことはまるで知らなかった。YouTubeに短い映像が残されていたので、ここにアップしておこう(出演者の役名はすべて映画『回路』に準じているようだが、何とか全編観てみたいものである)。

 さて、この『回路』を観て思うのは、「幽霊映画」といいながらも、人々が幽霊となって増殖していくところからも、テイストとして「ゾンビ映画」的ではないかと思う。
 そして、ラストに麻生久美子は助かって役所広司と共に「生き残れる場所」へと向かうという、ある意味で希望も感じさせる「ハッピーエンド」的でもありながらも、実のところ人間たちはほとんどもう存続していないわけで、相当な「ディストピア映画」とも思える。いや、どっちかというと「もう人類に希望はない」という感じで「終末感」が強いのだけれども、そういう「すべての希望もついえた」というラストではないことが特徴、とは思う。それはどこか、「これで終わったわけではない」という『CURE』のエンディングにも通じるようでもある。そうそう、この『回路』の前に撮られた『カリスマ』のラストも、この『回路』と繋がりがあるみたいだ。

 終盤、加藤清彦と麻生久美子とは、まったくあてもないのになぜか廃工場へと入って行くのだけれども、その「廃工場」がいかにも黒沢清映画らしいロケーションで、「もうこれは黒沢清の映画なのだから、こういう廃工場があれば吸い寄せられるように入って行くしかないのだよ」みたいな感想にはなってしまう。

 この作品のあと、黒沢清監督は『降霊』(2001)、『LOFT ロフト』(2006)、『叫』(2007)と「ホラー映画」といえる作品を撮っているのだけれども、わたしは公開時にこれらの映画を観た記憶はあるとはいえ、もうその内容はまったく記憶していないし、今ではこれらの作品を観るのもDVDでも買わない限りむずかしいようだ。