この作品は2018年のアメリカ合衆国の伝記映画。2015年8月21日に高速鉄道タリス内で発生したタリス銃乱射事件と事件に立ち向かった3人の若者を描く。監督は、クリント・イーストウッド。主演の3人は、実際にタリス銃乱射事件に巻き込まれた3人を本人役として起用している(Wikipediaからの引用)。
わたしは昨日、この映画のことは何も知らずにイーストウッド監督の『ハドソン川の奇跡』を観て、「ただただ実在の人物をヒーローとすることに力を注いだ映画」と感じ、「クリント・イーストウッドの持つ<保守性>があらわになっているのではないか」とも書いたのだけれども、まさかイーストウッド監督の次の作品が、またまた「実在の人物をヒーローとすることに力を注いだ映画」ということに驚いてしまった。
もちろん、この映画に登場した3人はフランスで「レジオン・ドヌール勲章」が授与され、当時のアメリカのオバマ大統領からホワイトハウスに招待されてもいて、まさに「英雄」「ヒーロー」なのではある。
そしてその「ヒーロー」であった3人自身がこの映画に出演し、自分自身を演じているのである(もちろん「少年時代」を演じているのは当人ではないが)。
この映画が「映画」として描いているのは、「いったいなぜ3人はあの日あの時間のタリス鉄道に乗り合わせることになったのか」、そして、「どのような背景があって犯人を取り押さえられたのか」ということだろうかとは思う。
背景としては、うち一人が柔術の訓練、人命救助の教習を受けていたことが描かれ、敬虔なクリスチャンとして「主よ、わたしを平和の道具にして下さい」との願いをも持っていたと。
そのことはこの際いいのだけれども、わたしが気にかかったのは、その3人の幼なじみがヨーロッパ旅行に出かけてからの描写で、ローマからアムステルダムへ行き、そこからパリへ行こうと問題のタリス鉄道に乗り合わせるわけだけれども、その過程が単に「若者の観光旅行」の記録だけで、わたしには映画の中でそのような「旅行」の描写にどれだけの意味があったのか、わからない。
ある意味、「こ~んな普通の観光旅行をしていた若者らが、偶然の乗り合わせで<ヒーロー>になってしまったのだよ」ということかもしれないが。
俳優ではないしろうとの「当人」が自分自身を演じる、ということは、場合によっては「あり得る」とも思うのでここでは問題にしないけれども、やはりこの映画、『ハドソン川の奇跡』で感じた「ヒーローを賛美する映画」の続篇とはいえると思う。
ただ、『ハドソン川の奇跡』では演出も「時系列」に沿ったものではなく、「国家運輸安全委員会」による調査というものがさいしょから挟まれ、ドラマ的に見ごたえはあったのだが、この『15時17分、パリ行き』では基本的に幼少期の描写からずっと「時系列」に沿った演出になっている。いや、若干、列車内での襲撃の模様が挟まれてはいて、「映画の内容を何も知らずに」観ても、「ああ、この3人は列車内でテロリストの攻撃に遭遇するのだな」ということはわかるのだが。
そういう意味で同じ「ヒーロー賛美」という映画であっても、『ハドソン川の奇跡』はドラマ的に楽しめるものだったと思うが、実のところこの『15時17分、パリ行き』、そういう「ドラマ」としてわたしにはま~ったく楽しめない映画ではあったし、やはりクリント・イーストウッド監督の「保守性」を垣間見た思いがする。残念。