ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ピンフォールドの試練』イーヴリン・ウォー:著 吉田健一:訳

ピンフォールドの試練 (白水Uブックス)

ピンフォールドの試練 (白水Uブックス)

 面白い!面白過ぎる! これはイーヴリン・ウォーの1957年の作品で、主人公には多分にイーヴリン・ウォー自身の実像が反映されているだろう。

 主人公のギルバート・ピンフォールドは50歳。小説を何冊も書いている中堅どころの作家で、ロンドン郊外に奥さんと暮らしている(子供たちもいっぱいいるらしいが、この作品ではその子供たちの役割はない)。そんな彼が不眠症に悩まされ、「ゆっくりと療養し、作品を書くことに専念したい」とかいうことで、セイロンへの船旅に出る。かかりつけの医師からは睡眠薬を処方してもらっているのだが、どうもコレがよくなかったらしい。乗船した船の中の様子がだんだんにおかしくなり、船室で周りからの騒音に悩まされるが、そのうちに彼を襲撃しようというような会話も聴こえてくる。ジブラルタル海峡を越えようというときに夜中にスペイン軍が船に乗り込んできた気配で、船長らはスペイン軍への人質にピンフォールド氏を差し出そうと言っているみたいだ。ところが朝になるとスペイン軍の気配もなくなってしまう。しかし、船に乗っている船客ら皆がピンフォールドの悪口を言っている。

 ‥‥アレですよ。キンクスの曲に「Acute Schizophrenia Paranoia Blues」というのがあったが、まさにあの曲の世界である。キンクスの曲では「牛乳配達の男はスパイで、食料品店の店員はわたしを追い回している、そして隣に住む女性はKGBの手先である」とか、そういう「妄想」の歌なのだが、まさに主人公のピンフォールド氏はそのような世界に巻き込まれて行く。そして外の世界に逃れられない「船」での旅だということが、よけいに妄想に拍車をかける。
 この、船旅が始まってからの「あれれれれ?」というところからだんだんに状況がエスカレートして、ほとんどシュルレアリスムの世界へと飛んで行く、イーヴリン・ウォーの筆致を楽しむばかりである。そしてもちろん、吉田健一の名訳。

 そして、この作品を最後まで読むと、実はこのような体験をしたギルバート・ピンフォールド氏が、その帰国した時点からこの小説を自ら書き始めたことになっていて、一種円環構造なわけだけれども、そうするとあれれ?この小説が「三人称単一視点」であることは当然のこととして、この書き手自身が書いている物語の主人公に何が起きているのか知っている、というあたりで「素直に読む」ことができなくなってしまうような。
 まあ、ちょっとナボコフ的に「再読を促す」種類の作品か、とは思うのだけれども、すいません。わたしは再読していないのですね。

 あとはやはり、この巻末の「解説」の、吉田健一氏の「名文」ですね。この、あまりに句点の少ない、ある意味読みにくい文章の奥に、吉田健一氏の「小説」への愛が読み取れるのではないかと思いました。まあ吉田健一氏は多くのイーヴリン・ウォーの作品を翻訳し、彼にとってもウォーは自分の「分身」のように感じておられたところがあったのではないでしょうか。この「解説」、すばらしい文です。