ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-07-03(Fri)

 今日は仕事を終えたあと、国分寺の「てんかん」専門のクリニックへの、三ヶ月に一度の定期通院の日だった。今日は特に検診というものもなく、ただ処方薬をもらいに行くだけのような通院。三ヶ月前の通院は「慢性硬膜下血腫」から退院してすぐのことで、思い出してみればそのときに今までのさいごの「外食」というものを、国分寺の中華料理店でとったのだった。実はぜんぜんおいしくはなかった記憶がある。

 時間的には外食しなければならないだろうというスケジュールなのだけれども、今は意地でも「外食はしないぞ」というモードなので、またコンビニでおにぎりを買って、駅前の休憩スペースで食べて昼食にした。
 まだクリニックの予約時間までたっぷりの時間もあるし、国分寺に向かう途中に三鷹で途中下車してお気に入りの古本屋に立ち寄った。この古本屋は画集や展覧会の図録にいつも興味をそそるものが置かれている。その他、自分の興味のある棚をじっくりと見て、2005年の「レオノール・フィニ展」の図録、『HENRY DARGER'S ROOM』という、ヘンリー・ダーガーの部屋を撮影した写真集、そして『ナボコフ書簡集1』の3冊を買った(ナボコフ書簡集の表紙は若き日のナボコフの写真で、それがけっこうトッポくって笑える)。

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 それでクリニックの近くで預金をちょっと下ろし、記帳してみると、自分では先日コンビニで払い込んだはずの「健康保険税」がまた引き落とされていて、「どういうことだ」と思う。

 クリニックでの診察というか問診もちゃっちゃっと終わったが、わたしが今勤め先から提出するように言われている「勤務に就いても大丈夫」という証明書というか診断書について、「わたしは無視するつもりだけれども」と先生に聴いてみる。
 わたしはこの件で何度も「出してもらいたい書類があるならメールなり手紙なり、文書ではっきり伝えてくれ」と会社に言ってあるのだが、まったくその返事をもらえていない。自分でも「文書で残すとマズい」と思っているのだろう。先生も、「(そんなのは)無視していいですよ」ということだったのでホッとする。

 クリニックを出て、その「健康保険税」の二重支払いについて市役所に電話してみるが、わたしも出先なので、しかとしたことがわからない。とにかくは帰宅してから確認しよう。

 帰路の途中に乗り換えの御茶ノ水駅でちょっと買い物をして、それで帰宅すると6時近くになっていた。ニェネントくんにはごはんが遅れて悪いことをした。すぐにごはんを出してあげ、自分は気になる「健康保険税」のことを自宅に郵送された書類で調べるのだが、なんと、わたしがコンビニで払い込んだのは「市民税」なのだった。大きなミステイク。みっともないことをしてしまった。あわてて外出先で問い合わせるのではなく、いちど帰宅してじっくり調べてからにすべきだった。強く反省した。

 テレビをみると、今日の東京都のCOVID-19新規感染者数はまた増加して124人になったと。感染者の多くは20代30代の若い人たちだという。実は今日、御茶ノ水駅で駅前を歩いていて前から二人の若い男が来たのだけれども、一方の男がしっかりともう一人の男の肩に手をまわしていて、まさに「濃厚接触」という感じだったのだ。二人ともマスクは着用してはいたのだが、どういうことで相手をそれだけ信頼しているのかわからないが、あれでは「マスクをしている」ことなど意味もなく、「若い人たちの新たな感染者が多い」というのは「こういうことか」などとは思ってしまった。今は「親しき中にもソーシャル・ディスタンス」なのだ。

 今日からはまたパトリシア・ハイスミスで、彼女の第一作『見知らぬ乗客』を読み始めたが、あまり読み進めることもできなかった。
 

『変身の恐怖』パトリシア・ハイスミス:著 吉田健一:訳

 まずはこの作品が、日本でパトリシア・ハイスミスが受容される初期の段階で、よりによって吉田健一によって翻訳されて出版されたということを考えてみたくなる(ちょっと長くなるけれども)。

 この翻訳が筑摩書房の「世界ロマン文庫」の一冊として刊行されたのは1970年のことで、これは原書「Tremor of Forgery」があちらで出版された翌年のことであり、そこまでに日本で翻訳刊行されたハイスミスの作品というのは、1966年に出た『慈悲の猶予』(のちに『殺人者の烙印』のタイトルで1986年に再刊される)だけなのだった。
 すでに映画『見知らぬ乗客』(1953)も『太陽がいっぱい』(1960)も公開されてヒットし、特に『太陽がいっぱい』は大ヒットしたあとなのだけれども、なぜか原作者のパトリシア・ハイスミスは「知る人ぞ知る」という段階ですらなく、「誰も知らない」というレベルだったと思う。『慈悲の猶予』はようやく、やっと翻訳されたという感じだったろうけれども、これは早川のミステリー文庫での刊行で、「ミステリー好きの好事者向け」のもので、こう言ってはアレだけれども、「ある程度売れればいい」ぐらいのものだったろうし、特に作者のパトリシア・ハイスミスにクロースアップされるような刊行ではなかっただろうと思う。
 それがなぜか唐突に、「世界ロマン文庫」でこの『変身の恐怖』が刊行される。「これはいったいどのような経緯でのことだろう?」などと思うのはわたしぐらいのものかも知れないけれども、わたしはこういうことを考えてしまうのだ。

 つまり、「いったいなぜ、吉田健一氏はこの『変身の恐怖』を翻訳したのだろう?」ということなのだが、これはどう考えても当時パトリシア・ハイスミスという著者の人気ゆえとは考えられない。だって先に書いたように、パトリシア・ハイスミスは日本では「無名」に等しい存在だったのだから。
 普通に考えられることとして、筑摩書房の編集の誰かがこの原作を面白いと思い、よりによって吉田健一氏に翻訳を勧めたという可能性だが、ちょっと考えれば、それは「ありえない」と想像がつく。つまり、仮にも筑摩書房の編集ともあろう人物がアメリカのパトリシア・ハイスミスという作家を面白いと思ったとして、それは当然海外での評価としてハイスミスが「ミステリー作家」としてカテゴライズされていることを知っていただろうし、もちろん『見知らぬ乗客』、『太陽がいっぱい』の原作者だということを知らないですませられるわけがない。それが(もういちど書くが)「よりによって」吉田健一に翻訳を依頼するなんて、クビ、降格を覚悟でなくてはできないことだろう(そこまでのことではない。ちょっと大げさ)。
 つまり、残る可能性はもう、吉田健一が偶然にこの原書を手に入れ、まあ非常に興味を持った結果かどうかは知らないが、「自分で翻訳してみよう」と思った、ということでしかないと思う。このことはこの文庫本収録の「訳者あとがき」にも「この小説の作者については原書の表紙に書いてある以外に何も知らない」と書いてある通りなのだろう。
 それで、この「世界ロマン文庫」とはどのようなものであったか、ということまでちょっと知りたくなって調べたのだけれども、これは1970年前後に刊行された全20巻のシリーズ本なのだが、その内容は『紅はこべ』だとか『ソロモン王の宝窟』みたいな通俗小説から、『ザルツブルグ・コネクション』のスパイ小説、そして『マルタの鷹』まで入っていたらしい。けっこう雑多な内容で、いわゆる「文学全集」からははじかれてしまうような「娯楽モノ」を集めたものなのだろうか。この20冊の中で吉田健一氏はもう1冊、マイクル・イネスという作家の『海から来た男』という作品を訳している(この本も何か面白そうだ)。この『海から来た男』もまた吉田健一氏のセレクションだとしたら、吉田氏はここで「作者の知名度は低いけれども、自分で読んで面白かったものを紹介しよう」という気もちだったのではないかと想像する。その一方が、この『変身の恐怖』だったわけだ。

 つまり、わたしが言いたいのは、この本の翻訳はその「世界ロマン文庫」という企画に合わせたらしい吉田健一氏の意志によるものであり、日本でのパトリシア・ハイスミス受容の歴史の中に組み入れられるものではないだろう、ということである。
 「そんなことはどうでもいいことではないか」という意見もいっぱい出てきそうだけれども、いやいや、そのおかげでこの『変身の恐怖』という作品が救われたところが大きいのではないか、というのがわたしの考えでもある(今はこの本、「ちくま文庫」の一冊として再刊されている)。

 吉田健一という人物は、自分の興味の向くままに実に多彩な翻訳を行った方で、それは一種「趣味人」と言ってもいいのではないかと思うのだけれども(この件はWikipediaの「吉田健一(英文学者)」の、#翻訳の項を見ていただけるとわかると思う)、その中で、この『変身の恐怖』を翻訳する3年前の1967年に、イーヴリン・ウォーの『ピンフォールドの試練』を翻訳していることが、わたしには気になる。そろそろ本題(『変身の恐怖』の感想)に入ろうか。

 ちょうどわたしは去年、その吉田健一訳の『ピンフォールドの試練』を読んでいたのだが、この本は一種ドラスティックなコメディーで、ある客船に乗り込んだ作家のピンフォールドという人物が、その船内でパラノイア的な妄想に悩まされるという作品なのだった。自分の部屋に配管されている伝送管から船員たちの異様な会話が聞こえてくるし、デッキに出ると船客たちが皆ピンフォールドのことを噂しているのである。
 ここで言いたいのは、そういう自分の生活拠点から離れた人物が、そんな環境の中で「自分」を見失いそうになるという小説の構造が、その『ピンフォールドの試練』とこの『変身の恐怖』では似通ったところがあるのではないかということである。もちろん『ピンフォールドの試練』はどう読んでもコメディーだし、『変身の恐怖』はシリアスなドラマではあるだろう。しかし『変身の恐怖』でも、主人公の作家であるインガムは、ある理由から生活するニューヨークを離れてチュニジアでしばらく暮らすことになり、そこで知りあうアメリカ人、デンマーク人、そして現地の人々の中で生活しながら、そもそもチュニジアに来ることになった原因のところに大きな問題が起き、アメリカの恋人(婚約者)の手紙にちょっとした疑惑を抱くことになる。しかもそのチュニジアのホテルの離れ屋で、奇妙な事件に巻き込まれる(いや、「事件」のはずなのに「事件」にならないのだ)ことになる。つまり、ここでも『ピンフォールドの試練』のように、主人公のインガムは一種「自己喪失」の危機に見舞われるということができそうだ。わたしは、そういうところで訳者の吉田健一氏はこの作品に興味を持ったのではないかという想像をしてみたい。

 ここで、吉田健一氏がこの『変身の恐怖』を翻訳したことで、この作品が救われたということを書いてみたい。

 パトリシア・ハイスミスは周知のように(一風変わった)「ミステリー作家」として知られているわけで、そのような了解の上からは、この『変身の恐怖』という作品はひねった「ミステリー」と言うこともでき、主人公が「自分は人を殺してしまったのではないか?」と思ったのにかかわらず、その物的証拠は何一つ残っていなくて、周囲の現地人は「そんなことは知らない」という。しかし、近くのホテルの離れ屋に長期宿泊しているアメリカ人は「その夜、大きな物音と叫び声を聞いた」というのである。
 この文庫本の帯にも「人を殺してしまったはずだ」と大きく書いてあり、つまりハイスミスのファンのためにも、これも「ミステリー小説」として了解されることを求めているわけで、一般にもこの作品はそのような屈折した「ミステリー」として紹介されているのだと思う。
 しかし、虚心にこの作品を読めば、そんなミステリー的な要素は「副次的」なことにすぎず、それは主人公の内面をゆるがす大きな要素ではあるものの、この小説はそんな「事件」の真相をあらわにしようとするものではないと了解されることと思う(登場人物のひとりのデンマーク人は、このことを「どうでもいいこと」とまで言っているし)。この小説であらわにされるものがあるとすれば、それはその「事件」をひとつの契機としての、主人公と「世界」との関係性なのだろう。じっさい、主人公はこの「事件」のあともなにごともなかったように、執筆をつづけていた新しい小説を書きつづける。

 そういう言い方をすればこの作品は「文学」であり、いわゆるハイスミスの愛読者が期待するような屈折した「ミステリー」ではない。そのことは(この作品を先入観なく読み、決して「ミステリー」として了解していない)吉田健一氏の卓越した「あとがき」で述べられている解読こそが最上の「道しるべ」ではあるだろうか。

 この物語の大きなプロットを書けば、小説家としていくつかの作品を発表しているインガムという主人公は、友人でもある映像作家のジョンの要請でチュニジアを舞台に映画を撮る計画を立て、まずは「チュニジア」という「地」を知るためにひとりでチュニジアに赴く。あとから遅れてインガムの恋人(婚約もしている)のアイナも映画のプロデューサーとしてやってくるはずである。チュニジアのホテルの離れの独立した一軒家を借りたインガムは、すぐ近くに住むアダムスというアメリカ人、それとデンマークからきて絵を描いているイエンセンと知り合い、交流を深める。イエンセンはゲイであり、アダムスはといえばなんと、どこかから資金を得て、チュニジアからソヴィエト・ロシアに向けて「アメリカの良さを伝える」反ソヴィエトの海賊放送を毎週やっている。この時代はヴェトナム戦争の時代であり、同時に世界的にヒッピーなどの新しい世代が生まれてきた時代で、アダムスはアメリカの進路を肯定する反共主義者であり、イエンセンはヒッピー的生き方を実践しているようである。インガムはアダムスのやっていることを「滑稽」だと思っているが、彼との交際を断ち切ることはないし、イエンセンもインガムを介してアダムスと会ったりする。
 一方でインガムはアメリカに手紙を出しつづけるのだが、しばらくは「なしのつぶて」でまるで返答がない。ようやくアイナからの手紙が届いてみると、そこにはジョンが自殺したことが書かれていた。
 映画の話は立ち消えになるが、インガムはこの地で書き始めた小説を仕上げようと、しばらくはチュニジアに滞在する。そんな中で先に書いた「事件」が起こる。インガムは夜中に彼の部屋に忍び込もうとする人物が部屋に入ったところでタイプライターを彼の頭に投げつけ、男は叫び声をあげてドアの外側に倒れる。インガムはとっさにドアを閉めるのだが、ドアの外で複数の人間の入り乱れる気配を感じ、倒れた男を引きずっていく音を聴く。投げたタイプライターの損傷具合から、それは男に致命傷を与えたのではないかと思うのだ。
 夜中にその叫び声と物音を聞いたアダムスは、インガムがやったことを想像し、「正しいこととしてあなたがやったことを認めろ」と執拗にインガムに迫る。そんな中、アイナがチュニジアにやってくるのだが、アイナは実は自殺したジョンと関係を持っていて、最終的に彼を拒んだことがジョンの自殺の原因だろうという。
 アイナはアダムスに「事件」のことを聞き、インガムに「事実はどうだったのか」と問いただす。イエンセンも「事件」のことを知っているが、チュニジアという国の中ではそんなことはどうでもいいことだと思っている(インガム自身もその前に、道ばたに転がるチュニジア人ののどを切られた死体を見ている)。
 インガムは、アイナとの婚約を解消するべきかと考えることになるのだが‥‥。

 インガムはアダムスの論議を内心では「Our Way of Life」(OWL)と呼んでこっけいだと思っていて、彼と話をしていて怒りを覚えることもあるのだが自制している。インガムはイエンセンとの交流こそを楽しんでいるようだが、彼の同性愛的な要求は拒絶はしている。
 あとからやってきたアイナはどうもアダムスとちょくちょく会って話をしているようだし、イエンセンのことは「あれはビートニクでしょう」と語るし、ゲイであるイエンセンとインガムが親しいことに疑念の言葉も投げかける。
 ここで、アメリカから離れたインガムの住む世界は、チュニジア的なそこの住民の世界観と、「OWL」であるアダムスの世界観の中で生きる。イエンセンは自分のことはまるで語らないが、インガムは彼の描く絵に共感もする。アダムスの世界観は、「事件」によってさらにインガムにはうっとうしいものになるし、インガムはけっきょくアイナに自分の知っている真実を語るべきか悩む(イエンセンには「何が起こったか」をすべて語っている)。

 けっきょくインガムは作品も書き終わり、ある決定をしてチュニジアの地を離れる。アイナもイエンセンチュニジアから去る。おそらくインガムはそのうちにデンマークにイエンセンを訪ねていくことであろう。

 この作品の主題はもちろん、「何が起こったか」を解明することではなく、チュニジアという「地」で生活し、「ある不可解な事件」を契機のひとつとして起こる、主人公のインガムの「心の揺らぎ」ではあるだろう。これはそういう意味では異邦人の物語ではあり、「心の安静」を取り戻すまでの物語でもある。そういうところで、のちの「ミステリー作家」としての日本でのパトリシア・ハイスミスの評価からひとつ距離を置いた、この吉田健一氏による翻訳が「有意義」になる、というのがわたしの考えである。あと、やはり吉田健一氏のどこかくねくねとした訳文の魅力というものがもちろんあるのだが。
 まあ読み終えてみて、インガムが「心の平静」を得そこねて狂ってしまうという展開でも面白かった気もするけれども、そうなるとまさにパトリシア・ハイスミスの作品らしくなるかもしれない。
 このような、ミステリーから距離を置いたようなハイスミスの作品について考えてみれば、先日読んだ『生者たちのゲーム』という作品もまた、「ミステリーらしからぬ」作品ではあったように思う。『生者たちのゲーム』では、恋人を残虐に殺害された男が自暴自棄になって自分が犯人であるかのようなふるまいをするのだが、その男の友人(この男も殺された女性の恋人であったのだが)が彼を救おうと、二人で延々と「生きる意味」とかを語り合うという、一種「実存主義」的な小説で、その殺人の犯人は終盤にまるで「やっつけ仕事」のように解明されて逮捕される。この作品でも、ぜったいに作品の主題は「殺人事件の犯人を解き明かす」などというところにはなかった。他にもそういうハイスミスの作品があるものか今はちょっと思い出せないけれども、ハイスミスの作品はどれもこれも、ある事件を契機としてのある人物の「実存的」な揺らぎをこそ主題にしているのだ、ということもできるだろうか。

 わたしがひとつ興味を持ったのは、やはりこの「OWL」、アダムスという男の「正義感」で、インガムはけっきょく彼の海賊放送はソヴィエト・ロシアに利するだけの反面教師で、アダムスの資金を出しているのは実はソヴィエト・ロシアではないかと想像する。
 彼の考えは一歩距離を置いて大局的にみれば「ばかばかしい」ものでしかないが、その「距離」がなくなって、じっさいに対面して論議すると「こまったこと」になる。わたしはそういうことで、いま現在のネットのSNSのことを思い浮かべたりする。
 SNSで信じられないようなバカげた発言をする人は多いが、「あなたの発言は間違っているよ」と伝えて、その人物を納得させることはできない。
 このことで思い出すことがあって、しばらく前の「ウイークエンド サンシャイン」で、ピーター・バラカン氏が「自分の友だちが<レイシスト(人種差別主義者)>だとわかったら、その友だちとの関係を絶つべきだ」という(誰かミュージシャンの)発言を紹介して、バラカン氏は「その意見に同意します」と語ったのだけれども、その翌週だかに番組中でバラカン氏が「先日のわたしの発言への反論が届きました」としてある意見を紹介したのだけれども、それは「<レイシスト>だからといって関係を絶つのではなく、その人物がなぜ<レイシスト>であるのか話を聞き、対話の中でその人物の考えを改めさせるべきだ」というもので、バラカン氏は「自分も考えてみます」とその話題をしめくくったのだけれども、これがまさに「OWL」との対話であり、たいていの場合(中には説得に成功することもあるかもしれないが)「なんてこった!」ということになってしまうのであろう。「無益」なこと(このことを書くとさらに長くなりそうなので、このあたりで切り上げるけれども)。
 そういうことを、(ある意味先駆的に)この『変身の恐怖』の中で語っているパトリシア・ハイスミス、やはり時代を抜けて人の精神を見つめていた作家だったわけだなと、ちょっと感銘を受けたし、わたしの今後の「世界との対し方」にも大きな参考になった本だった。

 あと、おそらくは吉田健一氏がつけたにちがいない『変身の恐怖』というミスマッチな邦題についても書きたかったけれども、まあこの本で起きた事件のように「どうでもいいこと」ではあるだろうから、それは敢えて考えなくてもいいことなのだろう。
 すっごい長文になってしまいましたが、まあたまにはこのくらいじっくりと(ほんとうはもっと書きたいけれども)書いてみるのもいいだろうと、時間を取って書いてみました。さいごまで読んでいただいてありがとうございます。
 

2020-07-02(Thu)

 今日から、朝に駅まで歩く道も、先日歩いてみた道で行くことにした。ちょっとだけ遠回りになるが、国道に沿って歩かなくていいし、この時間なら人も車もまるで通らない道。ひとりで歩くのが爽快だ。
 わたしはもうすっかり、何もかも「ひとり」という生活が当たり前になってしまった。できるだけ人に会いたくないし、だからいろんなところに出かけようともまるで思わない。「映画を観たいな」と思うこともあるが、映画館のあるところに移動して、そして映画館の中に入らなければいけないと考えると、やはり行く気が失せてしまう。仕事に出かけるのは仕方がないけれども、仕事が終わればまっすぐ帰宅してニェネントに会いたいと思う。

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 今日の東京都の新たなCOVID-19感染者数は100人を超えた。都も国もまったく対策を施していないから、まだまだ新しい感染者は増加するのではないかと思う。どうもこれからが本当の「COVID-19禍」ではないのかとも思える。そうするとまた「緊急事態」で、「Stay Home」になるだろうか。都や国は「経済復興」を最優先しそうだから、もういくら新規感染者が増加しても「自衛せよ」というばかりで何もやらないだろうか。
 こういうこと書くとひんしゅくを買うかもしれないが、わたしはまったく収入がなくても半年以上は生活していける。前の「Stay Home」での体験を考えると、今の蓄えで1年ぐらいは無収入でもやっていけるのではないか。逆に、ニェネントと毎日、一日中いっしょに暮らせるならば、また「Stay Home」になってもいいように思ってしまう。わたしはもう、以後の自分の生活の仕方を決めてかかっているところがある。そう決めた生き方を実行したいものだ。

 そういうわけで6月が終わったので、6月の支出の決算を出してみた。さすがに6月からまた勤めに出るようになったのでかなり支出も増え、(家賃、水道光熱費は除外して)トータルで6万6千円ぐらいの支出になった。5月は3万7千円でおさえたわけだから、大幅に増加した。まあ6月は通院している病院でお金がかかってしまったし、靴を買ったり文房具を買ったりしたわけだ。ニェネントのお誕生日もあったしね。それに何より、5月はまるで飲まなかった「酒」をまた飲み始めたことが大きいか。
 食費自体は先月と大差ない支出だったけれども、ここに仕事先で飲む「缶コーヒー類」というのが出てきて、これが4千円ぐらいになってしまった。どうもね、仕事の合間に「ちょっと一服」とはなってしまうし、それが仕事に出ていると1日に2缶とか飲んでしまう。これを「悪癖」と捉えるか、「糖分、水分補給の必要経費」ととるべきか。
 いちおう、7月は6月よりは1万円は支出を減らしたいと思う。

 読んでいたパトリシア・ハイスミスの『変身の恐怖』を読み終わり、もっとハイスミスを読みたいと、持っていない彼女の本をAmazonでまずは2冊注文した。あと3~4冊でいちおうハイスミスはすべて揃うことになる。
 それと、ネットをみていたら今日7月2日はウラジーミル・ナボコフの命日だという。そうすると急にナボコフの珍しいディストピア小説『ベンドシニスター』をまた読みたくなり、前は図書館で借りて読んだわけだったが、Amazonでけっこう安かったのでこれも買ってしまった。
 ‥‥こんな買い物をしていると、7月の支出は6月より減らせるどころか、さらに支出増となってしまいそうだ。
 

『なまいきシャルロット』(1985) クロード・ミレール:監督

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 さいしょのタイトル部の映像が何だかわからなくって、「何だろう?タイプライター?」とか思っていたら実はジュークボックスのターンテーブルのところで、60年代っぽいフレンチ・ポップスが流れてくるところから気もちがいい。映画は特にジュークボックスの時代のものではなかったし、意図的なアナクロニズムだろう。

 13歳のシャルロット(シャルロット・ゲンズブール)は父と兄との3人家族。母はシャルロットの生まれたときに亡くなっていて、レオーヌ(ベルナデッド・ラフォン)が家事手伝いで毎日通ってきていて、彼女がほとんどお母さん代わりである。シャルロットのところに、近所のルルというおチビさんの病気がちの女の子が泊まりにくることがよくあるみたいだ。シャルロットはルルに意地悪だったりするけれども、けっきょくこの二人、いい友だちみたい。
 ある日シャルロットは学校で、別のクラスの皆が視聴覚教室(?)で、クララという13歳の天才ピアニストのコンサートの映像を見て(聴いて)いるのを教室の外から覗き見していて、先生にみつかって「中で見なさい」と招き入れられる。クララが自分と同い年だということに感銘を受けるのだが、夏休みに入った日に街角で偶然、クララの乗った車に道を聞かれてしまう(このときクララといっしょなのが、クララのマネージャー役のジャン=クロード・ブリアリ)。クララはコンサート用の椅子の修理に町の旋盤工場へ行くところだった。
 シャルロットはその旋盤工場へ行き、そこで働くジャンと知り合って、出来上がった椅子をクララの邸宅に届けるのに同行させてもらう。クララの邸宅の中でシャルロットはクララと会うことができ、「わたしの<付添い人>になってよ」と誘われ、その夜のパーティーにも参加してしまう。シャルロットはすっかり付添い人になるつもりになってしまうのだが。

 13歳、背伸びしたい盛りの思春期の一時期、自分の知らない世界へ飛び立ちたいという心情が、どたん場で自分の足元の世界の大切さに気づくという少女の<成長譚>だけれども、脚本が過不足なくピタッと決まっている感じで、うまくツボを押さえた映像からも、96分が小気味よく過ぎていく。
 そもそも、教室のテレビ画面に映るクララがアップの映像になるとき、クララがカメラ目線でにっこりと微笑むのだが、その微笑みがまさに、シャルロットに向けられた微笑みと演出されているあたり、心憎いものがある。
 印象的なシーンの多い作品だが、やはりシャルロットとレオーヌ、そしてルルの3人での庭園でのピクニックのシーンが心に残る。このシーンこそが、ラストにシャルロットが「自分の足元」として認識する<原点>なのだろう。
 ジャンとの、映画館で『エクソシスト』を観てからの「それ、危険だよ」というデートもまた、「自分の知らない世界」とは「危険な世界」でもあるとの認識になるだろう。
 実はこのシーンに出てくる「照明になる地球儀」というものをわたしも持っているのだが、ずいぶん前に高いところから落としてしまって、ライトが点かなくなってしまっているのだ(この地球儀で殴られた体験はないが)。

 中学生ぐらいの女の子たちに、皆に見せてあげたいような映画だと思ったけれども、日本ならこういう題材の少女マンガというものがじっさいにありそうに思う。
 

2020-07-01(Wed)

 仕事を終えてウチに着き、ドアを開けるとニェネントが例のソファーの上で丸くなっているのがみえた。わたしが帰ってきたのでわたしのいるドアの方にすっとんできた。新しいソファーが「なんだ、これは居心地がいいじゃん!」と気に入ってくれたのだろう。わたしとしても、プレゼントが気に入ってくれてとてもうれしい。

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 今日は雨が降ったりやんだり、そして風の強い一日だった。もう白米がなくなったので買い物に行きたいと思うが、明日ならば木曜日で、駅を二つ隔てたところの駅前のスーパーは1割引きの日だなと思ったのだが、今はどこのスーパーもそういう曜日サーヴィスとかいうのをやめてしまっている。ネットで調べるとやはり今は「木曜1割引き」というのはやっていないようだった。「それならどこで買っても同じことだな」と思い、普段の通常売り値が安いところがいいかということだが、記憶では北のスーパーがいちばん安いけれども、安いのは「標準米」なわけで、それ以外のもうちょっとクラスが上の米は、手前のウチからいちばん近いスーパーと同じような価格だ。「ではいちばん近いスーパーでいいか」と、買い物に出ようとしたら雨がポチポチと落ちてきた。買い物に出てとちゅうで雨が激しくなってもいやなので、「やめようか」という感じで部屋に戻った。
 それがしばらくしたら外の空が明るくなり、見てみると雨も降っていなくって、この空模様だと雨も降りそうに思えなかったので買い物に出ることにした。

 このスーパーは、「もやし」がどこよりもいちばん安い。普段から一袋18円で、たまにセールのときには10円になったりする。まあ「もやし」は傷みやすいし、しょっちゅう「もやし」ばかり買ってもいられないけれども、経済的な食材なので10日に一回ぐらいは買う。今日も買うことにして、安かったツナ缶を買い、米の売り場にいってみる。するとラッキーなことに5キロ1780円の白米が20パーセント引きで売られていた。「なぜ割引対象になっているのか」とみたら、どうやら精米日が半月前のせいみたいだ。そんな、半月ぐらいのことならば無問題である。なんか得した気分で買い物をすませた。

 夕方、今日の新しいCOVID-19感染者の数は67人になったとの報道だった。日ごとに増加していてヤバいのだが、国も都も何らの具体的な対策をとろうとはしないようだ。何ということだろう。特に東京都は、これからは数値的なデータは参考にしないようなことを言い出したようだ。つまり、「何もやらない」ことの言い訳だろう。
 今週末日曜日には東京都知事の選挙の投票日なのだけれども、こんな状態でも現職の小池都知事が圧倒的に有利なのだという。今現在「何もやらない」都知事を再選すれば、これからも「何もやらない」だろう。東京都民は「それでいい」と思っているのだろうか。まあ国民のことを何も考えない安倍首相が8年も首相の地位に居座っているわけだし、もうすっかり日本という国は狂ってしまっている。

 そんな報道を見たあと、「GYAO!」で『なまいきシャルロット』を観た。この映画のタイトルは知っていたが、そんなタイトルから「わたしなどが観る映画ではないだろう」と思い込んでいたのだが、監督はクロード・ミレールだし、ベルナデッド・ラフォンやジャン=クロード・ブリアリも出演していて、ほとんどヌーヴェルヴァーグ映画みたいな布陣なのだった。こういうチャンスでもなければ観ることもなかった映画だっただろうけれども、観ることができてよかった作品だった。
 

2020年6月のおさらい

Book:
●『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』阿部謹也:著
●『黄金の壺』ホフマン:著 神品芳夫:訳
●『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ:著 鼓直:訳
●『11の物語』パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳
●『動物好きに捧げる殺人読本』パトリシア・ハイスミス:著 中村凪子・吉野美恵子・榊優子・大村美根子:訳
●『フランシス・ベイコン・インタヴュー』デイヴィッド・シルヴェスター:著 小林等:訳
●『カブトガニの不思議 ー「生きている化石」は警告するー』関口晃一:著

ホームシアター
●『ポランスキーの 欲望の館』(1972) ロマン・ポランスキー:監督
●『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973) フランソワ・トリュフォー:脚本・監督
●『スウィート ヒアアフター』(1997) アトム・エゴヤン:監督
●『マッチポイント』(2005) ウディ・アレン:脚本・監督
●『ギャラリー 欲望の画廊』(2009) ダンカン・ウォード:監督
●『父の秘密』(2012) ミシェル・フランコ:脚本・監督
●『複製された男』(2013) ジョゼ・サラマーゴ:原作 ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督
●『追憶の森』(2015) ガス・ヴァン・サント:監督
●『ウィンド・リバー』(2017) テイラー・シェリダン:脚本・監督
●『シラサギとツル』(1975) ユーリー・ノルシュテイン:監督
●『霧につつまれたハリネズミ』(1975) ユーリー・ノルシュテイン:監督
●『話の話』(1979) ユーリー・ノルシュテイン:監督
●『死闘!南太平洋』アメリカ軍戦時情報局:製作
●『団地妻 昼下りの情事』(1971) 西村昭五郎:監督
●『四畳半襖の裏張り』(1973) 神代辰巳:監督
●『天使のはらわた 赤い教室』(1979) 石井隆:原作・脚本 曽根中生:脚本・監督
●『団地妻 迷い猫』(1998) 小林政広:脚本 サトウトシキ:監督
●『奥さん、同窓会に行く』(2004) 小林政広:脚本 サトウトシキ:監督
●『たまもの』(2004) いまおかしんじ:脚本・監督

2020-06-30(Tue)

 ニェネントの誕生祝いに買った「シェルター/ソファー」、ニェネントはぜんぜん使ってくれないなと思っていて、それでもリヴィングに置きっぱなしにしておいた。しばらくはシェルター仕様にして穴の中にもぐり込むかたちにしていたのだけれども、「やはり季節的に暑苦しいか」と、天井部をへこませて「ソファー」仕様にしておいたのだけれども、今日帰宅して机に向かっていて、ふとうしろをみると、ニェネントがそのソファーの上で丸くなっていた。

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 ようやく、やっとのことでなじんでくれたか。今日は午後のあいだずっと、そのソファーの中に滞在してまどろんでいた。気に入ってくれるといい。

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 6月も今日でおしまい。つまり、今年も半分が終わってしまうわけだ。先週に「夏至」も過ぎてしまい、これからは日ごとに日が短かくなっていく。今は出勤で家を出るときにはすっかり日が昇って明るくなっているけれども、これもせいぜい8月までのことで、9月を過ぎればまた暗い道を駅まで歩くようになるだろう。

 今日は仕事の帰り、駅から自宅までの道を今まで歩いたことのない経路で帰った。いつもは国道沿いの道を歩くのだけれども、4車線の道をトラックだとか大きな車がビュンビュン飛ばして走っていく。情緒も何もあったものではないし、万が一にも車が歩道に飛び込んできて巻き込まれるとかいくことが、ぜったいにないとは言い切れない。そういう考えもあって、「これからは国道に沿って歩くのはできるだけ最短距離にしようか」という気になった。
 初めて歩く道はウチまでのあいだに二つの公園もあるし、道路沿いの家の庭にはいつもの道とはちがう植物が植えられていて、今の季節の花が咲いていたりする。
 大きな黄色い花が咲いていて、何という花だかその名まえも知らなかったが、帰ってから調べたら「アメリノウゼンカズラ」というもののようだ。

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 公園には大きな木が生えていて、枝葉のつき方が独特なのだけれども、これはけっきょく何という木なのかはわからなかった。

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 小さな個人菜園には、カボチャが1個実っていた。

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 そして、アサガオがたくさん咲いている垣根もあった。

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 知らない道を歩くというのも気もちがいいものだ。でも、この道を何度も歩くようになれば「知らない道」ではなくなり、そんな道沿いの風景に特に目をとめることもなくなってしまうだろう。

 パトリシア・ハイスミスの『変身の恐怖』を快調に読み進めている。おそらくこれで読むのは3度目ぐらいになると思うのだけれども、漠然と記憶していたその内容は、この作品の本質から大きく外れたものだった。今のSNS全盛の時代にも示唆に富む内容に思える。
 今日は映画は観なかったが、今、「GYAO!」ではヴィスコンティの『ルートヴィヒ』を観ることができるようだ。しかし4時間。落ち着いて観ることのできるときにゆっくりと観ようと思う。