ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

「雲をつかむ話」多和田葉子:著

雲をつかむ話

雲をつかむ話

 先日読んだ「言葉と歩く日記」につづいて、二冊目の多和田葉子の本。先の「言葉と歩く日記」はまさに「日記」だったけれども、いちおうこっちは「小説」なのか。
 「人は一生のうち何度ぐらい犯人と出逢うのだろう」という書き出しで始まるこの作品、作家の多和田葉子本人である(としか思えない)「わたし」が語る(書く)、「犯人」(犯罪者)との遭遇の記憶が、その「犯人」をキーワードに、時も場所も変えて書き継がれて行き、それは一種、「わたしと<犯人>と」という題材での、エッセイ的な書き継ぎ方だとは思った。そしてやはり読んでいて思うのは、「これらの<体験談>は、いったいほんとうに<事実>なのだろうか?」という<疑い>の気もちというか、そもそもこの作品は「小説」としてリリースされているわけだから、それが<事実>であるひつようもないわけで、いくらでも<創作>が紛れ込んでいても、読者は作者のことを「嘘つき!」などと非難するのは「お門違い」である。それが「小説」というものだということは、リテラシーの基本であろう。
 そんな中で、冒頭から書かれる「フライムート」という人物との遭遇、その後のいきさつはリアルで、けっきょくこの本はその「フライムート」とのことを中心に回転して行くわけで、この作品中で「わたし」は、そのフライムートとの邂逅を人々に「ほんとうのことなんです」と繰り返すわけで、妙に細部までリアルな筆致に、読んでいる方も「これは事実なのだろう」と思うことにはなったと思う。そのことが、これ以外の「わたし」と「犯人」との遭遇もまた「ほんとうのこと」なのだろう、という気にさせられる。
 わたしは多和田葉子の書いたことが「事実」だったとしても、小説家らしい「つくりごと」だったとしてもかまわないのだけれども、さいごの一節のある女性のセリフ、そのさいごの言葉で、読んでいたわたしは「奈落」へと突き落とされる思いがした。‥‥これは、巧みに構成された「ホラー小説」なのではないだろうか。「ほんとう」と「うそ」とが、ここで恐ろしいまでの<混合>をみせてくれる。
 それで、終盤に書かれている次のような文章を、今読み直すとどのように感じるだろうか。

 前からブルドッグを連れて火の消えた煙草を乾いた薄い唇にはさんだ筋肉質の小柄な男が歩いてきて、さっと腰を回してわたしたちに道を譲ったが、すれちがいざま振り返って、値踏みするようにこちらを見た。それからまわりには誰もいなくなったと思っていると、スカートの裾が大きく広がった髪の長い女性の姿が遠方にうっすら見えた。目の前まで来てみると女性ではなく、スカートをはいた髪の長い若い男で、アイシャドウが滲んで眼が少し悲しげに見えた。すれちがったと同時に視界から消え、振り返ったらもうそこにはいないのではないかと思われるほど姿が薄かった。しばらくすると前方の階段を川に向かって下りてくる太った男の姿が見えたが、一人すれ違う度に夕暮れが濃くなっていくので、もう誰ともすれ違いたくない気がした。

 ‥‥わたしの思いでは、この一節の中にこの作品の「キー」が含まれているとも思うのだけれども、いや、何度読んでも、すばらしい文章だ。