ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『怪談雪女郎』(1968) 田中徳三:監督

 これは「怪談」というより、小泉八雲が「雪おんな」で書いた雪女伝説の正統な映画化という感じ。脚本は八尋不二で、オリジナルに「悪役」の地頭を登場させている。監督は田中徳三で、この人は「悪名」や「座頭市」を撮っていた方で本来はアクション・ドラマ系の方なのだろう。撮影の牧浦地志という方もアクション系の方だろう。また、美術監督の内藤昭はWikipediaにも「大映京都を代表する美術監督の一人」と紹介されている。前に観た『怪談累が淵』の美術はこの方だった。そして音楽は伊福部昭で、その音楽によって作品の格調が高められている。
 主演、その雪女のゆきを演じるのが藤村志保で、様々な役柄をこなされたキャリアの長い名優なのだけれども、この作品ではその清楚で和風の美しさと、殺意を秘めたときの、メイクによる妖しい美しさとの両面をみせてくれる。相手の仏師の与作を演じるのは石浜朗

 国分寺観音菩薩像を彫るために、与作は師匠の仏師、茂朝と共に、良質の木を探しに雪の山林へ足を踏み込むのだが、吹雪を避けて山小屋で一夜を過ごすことにする。そこへ雪女があらわれて、茂朝を凍死させるのだが、与作のことは「この夜のことはぜったいに他言しないこと」と約束させて去って行く。
 その後良い木も見つかり、茂朝の代わりに与作が菩薩像を彫ることになるのだが、あるとき与作の家に雨宿りに「ゆき」という旅の女があらわれ、そのまま与作と夫婦になるのであった。
 5年が経ち、二人には太郎という子供も授かっているが、与作の菩薩像は「慈悲の目が彫れない」と進まない。一方、土地の地頭がゆきに横恋慕し、何とかモノにしようとする。そのために都から行慶という仏師を呼び寄せ、与作の菩薩像の仕事を奪おうとし、けっきょく二人での競作ということになるが、行慶の菩薩像は国分寺を満足させるものではなかった。
 地頭は、与作の家の前で崩れ落ちた丸太が役人を傷つけかけたとして与作を罪に問い、黄金3枚を払うかゆきを妾として差し出すかにせよと迫る。ゆきはその理不尽な無理難題を土地の守護職に訴えに行くのだが、そのとき守護職の子供が病に倒れており、集まった医師ら皆に見捨てられたところだった。
 ゆきは三日三晩の治療、看病でその子を救い、黄金3枚を与えられて帰る。やつれたゆきを見た与作は菩薩像の表情へのヒントをつかむ思いがしたが、まださだかにはならない。
 与作はゆきと共に土地の祭りで祈祷する巫女のところへ行くが、巫女はゆきを見て彼女が「もののけ」であると悟り、ゆきを攻撃する。祈祷場から逃げ出したゆきは地頭の部下の役人らに捕えられ、地頭のもとに引き立てられてしまう。地頭は蔵にゆきを放り込み、自分もゆきを手籠めにしようと蔵に入るが、怒りに駆られたゆきは「雪女」となり、地頭を凍りつかせて死に至らしめる。
 与作のもとへ逃げ帰ったゆきの表情を見て、与作は「雪女」との出会いを思い出し、ゆきにその話をしてしまうのであった。ゆきは「誰にもいうなと言ったのに」と「雪女」の姿を見せ、「わたしはあなたを殺さなければならない」と与作に迫るのであった。
 そのとき、寝ていた太郎が目を覚まして泣き出すのだった。「雪女」は「あなたは殺さない。太郎のことを頼みます。そして観音菩薩像を仕上げて下さい」と語り、外の雪景色の中へ消えて行くのであった。
 与作はさいごにゆきが太郎を見た眼の中に「慈悲」の輝きを見、「これで菩薩像も出来る」と、思うのだった。

 そんな、伝承された「雪女伝説」と、作品を仕上げようとする芸術家の苦心とを組み合わせたストーリーがいいが、ただラストに雪女との約束を破ってしまった与作の「悔悟」が見えなくなってしまったのは、ちょっと残念。

 先にも書いたが、藤村志保の「ゆき」のときの清楚な美しさと、「雪女」となったときの妖しいメイクと金色の眼とのギャップが見事で、まさにこの映画、「藤村志保の映画」とも言いたくなってしまう。

 ワイドスクリーン、カラーの画面が美しく、カメラ構図もいつも見事。あの雪景色も「スタジオセット」なのだと思うと、すばらしい仕事ぶりだと感嘆する。特にラスト、そんな雪の中を雪女が去って行くシーンはとてつもなく幻想的で美しかった。