ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2026-04-04(Sat)

 今朝のピーター・バラカン氏の『ウィークエンドサンシャイン』はようやっと、1月に亡くなられたボブ・ウィアー氏の特集だった。久しぶりにGrateful Deadの曲などをたっぷり聴いた朝だった。
 ピーター・バラカン氏は昨夜からEテレで『未来へのプレイリスト』という番組を始められ、その第一回は「モータウン・サウンド」の特集だった。30分の番組だからそれこそ「駆け足」「うわべだけ」という内容ではあったけれども、Four Topsの「Reach out, I'll be there」のライヴ映像などは、意外とわたしも初めて見た。

 「ウィークエンドサンシャイン」が終わって、西のコンビニ経由で北のスーパーへ買い物に出かけた。西のコンビニのそばの神社のサクラは、今まさに満開といっていいだろう。これからは散っていくばかりになる。

     

 コンビニからスーパーへと歩いていると、東の屋根のあいだから黒い煙がたなびいているのが見えた。瞬間的に「火事だ!」と思った。方角的にも、我孫子駅の北にあるショッピングマートのあたりではないかと。
 帰宅したあと昼のニュースを見ていたら、みじかいあいだだけれどもこの火事のことが報道されていた。場所は予想したよりももっと東側で、駅からも1キロ近く北東に行ったあたりみたいだ。火事というのはじっさいよりも近くに見えてしまうものだ。
 出火元は4階建ての建築事務所で、全焼だったというが、土曜日だからか建物には人はいなかったらしい。

     

 スーパーではウィスキーと焼き鳥(塩焼き)のパックなどを買った。わけあって、もうキリキリと節約のことばかりを考えるのはやめるのだ。そんなに高額のものは買わないが、欲しいものを買う。
 まあ今いちばん食べたいものは「焼き鳥」だったりして、つまり大した贅沢ではないのだが、たとえスーパーのパックでも、焼き鳥はおいしい。

 アメリカでは先日、「No Kings」を標榜して800万人の人が「反トランプ」のデモを行ったが、日本でも先週末から「戦争反対!」のデモが繰り返されている。わたしも元気だったらそんなデモに参加したいところだが、日本でも高市のアホさ加減に声を上げなければ、という人たちが増加しているのだろう。
 時を同じくして「世界中から、戦争がなくなりますように」というメッセージが批判にさらされるようになったこの日本、そのような風潮に抗したいということもあるだろう。

 今は例えば「ヤフコメ」上でも「X」上でも、「サヨク」ということと共に「リベラル」ということも批判・排斥の材料にされてしまっているようだが、「サヨク」の反対語が「右翼」であるように、「リベラル」の反対語を調べると「パターナル(父権主義・権威主義)」という言葉が出てくる。つまり「サヨク」や「リベラル」を批判する人々の立場はまさに「右翼」であり、「父権主義・権威主義」と解釈されてしまうのだ。
 もうひとつ、今わたしが考えるのは、「サヨク」や「リベラル」を攻撃する人々というのは、「理念」というものの持ち合わせがないのではないかと思うのだ。「理念」というものは、人が生きていく上で大切な拠り所であるだろう。
 例えば「世界中から、戦争がなくなりますように」という考えは、個のなかで譲ることのできない「理念」として、素朴なだけに重要なことだとは思う。そういう意味でそういった「反戦」という概念や、「平和主義」に反対する立場や思想とはつまり、たんじゅんに言えば「軍国主義」であり、「何もしない反戦」は真の平和につながらないとして、トランプのやるように時には軍事的実践を伴う平和維持活動こそが重要、という立場をも意味するだろう。
 けっきょくは「権威主義」を前提とした世界観では、「力による平和」こそ当然のこと、と考えられるのだろう。だからそういう、そもそもが右翼的権威主義思想の持ち主が「ヤフコメ」や「SNS」を牛耳っているところはあるのだが、問題はそういう考えの輩の存在ではなく、ただネットを見ていると皆が「リベラル」を排斥しているから、「そういうものなんだろう」と思い込んで、考えもなくリベラル排斥に同調してしまう人たちの存在だろう。

 わたしは若い頃からずっと、そういう「反権威主義」という理念で生きてきたので、その理念からも「共産主義」にも同意しないで生きてきた。だが「共産主義」の体制批判には有効なところも大きいわけで、特にこ~んな世界になってみると、「共産主義」へのシンパシーも大きくなっている、というのが正直なところなのです。今日の「告白」はここまでで。